タイム・トラップ
「日が経つにつれて、どんどん相手のことを好きになっている」
と思えるところだった。
「もし、会えなくても、相手のことを思っているだけで、二人の距離は確実に狭まっている」
そんな意識が、江崎の中に芽生えていた。
そして、慶子が言うには、
「私が言おうとしていることを、あなたが先に言ってくれている」
それが嬉しいというのだ。
この思いは、実は江崎の方にもあった。だからこそ、自分が言おうと思っていることを相手が先に言ってくれると感じる証拠であって、江崎としては、相手がそう感じることで心地よくなってくれているのだから、自分の方から余計なことを言って、気分を害するようなことはしたくないと思うのだった。
江崎が初恋だと思うのは、今までに感じたことのない思いを、二人で共有できていることが、本当の恋だと思っているからだ。それまでの恋が、まるでままごとのようだったように感じるのは、自分よがりの感情を、相手に押し付けていたからなのかも知れない。
それに、今までの恋愛が学生だったということも大きかった。
社会人になったからと言って、別に急に大人になったというわけではない。学生時代から、大人になるために自分の中で培われてきたものが、確実に存在していた。しかし、こと恋愛に関しては、
「学生だから」
という甘えのようなものが存在したのも事実だった。
慶子も同じことを考えていたようだ。
「私は高校生の時、大学生の人とお付き合いしたことがあったんだけど、高校生の私から見ると、最初は煌びやかに見えて、好感が持てるところがあったの。それを私の方で勝手に、清廉潔白な男性だと勝手に思い込んでしまっていたことで、彼を見ていて、『どこかが違う』って思うようになったんだけど、大学生というのは、そんな裏の部分を下だと思える人には決して見せないものなのね。そのくせ、社会人から見ればバレバレのようで、さすがに太刀打ちできる感じではなかったわ」
「それで、その人に愛想を尽かせたということかい?」
「愛想を尽かせたというのとは、少し違う気がするんだけど、今まで見えていなかったものが見えたということ。そして、彼が自分よりも下の人には絶対的な自信を持っているのに、少しでも上の人には、完全になめられてしまっているというそんな雰囲気を知ってしまうと、さすがにお付き合いしていくわけにはいかなくなってしまったの」
慶子の気持ちも分かる気がした。江崎は、大学生同士で付き合っていたのは、お互いに上下の意識がなかったことで、少しでもぎこちなくなると、お互いに少しずつ無意識に逃げの態勢に入ってしまう。
それが、お互いに「自然消滅」として、お互いに傷つかない、そして楽な方法を選ぶことになったのだろう。それだけ理由がどうあれ、いかに傷つかずに済ませるかということを、無意識に考えていたのだろう。
ただ、慶子の話を聞いていると、
「本当に、自然消滅というのは悪いことではないのだろうか?」
確かに仕方のないことだと思う。自分が自然消滅を演出した時は、少なくとも悪いことだとは思っていなかった。これが他人事になってしまうと、自然消滅は決して褒められたことではない。
そう思うと、相手に対してキチンと説明して別れるというのが当然の流れであり、尾を引かないことになるだろう。だが、それも相手によることであって、自分の大学時代に付き合っていた女性とは、自然消滅が一番よかったのだと思っている。
「今から思えば、そこまで真剣ではなかった」
別れを迎えると、さすがにショックが大きく、長い間落ち込んでしまって、なかなか立ち直れなかった。その理由は、
「これから、どうしていいか分からない」
という思いからであった。
その理由は、
「自分が女性と付き合ったのは、相手を好きになったからではなく、恋愛というものに対する憧れの方が強かったからではないか」
と感じたからだ。
しかも、付き合っていた女性も同じで、むしろ女性の方が、恋愛に対して夢見ていたと考えるのが自然ではないだろうか。別れを迎えて、お互いに自然消滅を選んだが、江崎の方は内面では、完全に浮足立っていた。だから、
「どうしていいのか分からない」
と感じたのであった。
付き合い始めから、毎日が有頂天で、それまでの人生とは正反対の明るい毎日が待っていたのだ。有頂天になるのも当たり前で、
「ずっとこんな気持ちが続けばいい」
と思いながらも、心の中で、
「いつ終わりが来るか分からない」
という怯えがあったのも事実である。
だが、不安が大きければ大きいほど、有頂天になった気持ちは揺るぎのないものになっていた。その裏返しが、いつ終わるか分からないという不安であり、不安だけでは暗くなる一方なので、暗くならないように、余計に有頂天な気持ちを増長させる必要があった。
そのため、いくら自然消滅を選んだとは言え、別れてからの自分が想像できなかった。
「前の自分に戻るだけだ」
というだけのことなのに、一度天国を見てしまうと、奈落の底に叩き落されるのは、今までにない恐怖であり、まるで自殺行為に思えてならなかった。
「どんなことをしても、それだけは阻止しないと」
と考える反面、
「もし、陥ってしまった時の心の準備もしておかないといけない」
という二段構えの気持ちを持つことは、用心深いと言えるが、
「自分の中の弱さが招いた不安なんだ」
という結論を認めたくないという思いの裏返しでもあった。
両極端な二段構えは、双方の考えをお互いに打ち消す効果もあり、あまり有効ではない。しかも、明らかに後ろ向きに考えなので、どうしてもネガティブになってしまう。大学時代には、いつも明るく振舞っていたつもりだったのに、後から思い出すと、あまり明るく振舞ったという意識は残っていない。つまりは、それだけ自分の中で無理をしていたということであり、自然消滅がもたらした弊害であったことに違いはなかった。
慶子は江崎が考えているよりも、ずっと「大人の女性」を思わせた。少なくとも自分が高校時代というのは、恋愛経験がなかったにも関わらず、慶子は大学生と付き合っていたというのだ。その事実を聞いただけで、慶子に対して一目置いてしまった江崎だった。
それと同時に、自分が慶子を好きになっているということに気が付いた。大学の頃に付き合った女性とは、すぐに相手のことを好きになったわけではなく、付き合っているうちに、
「僕はこの人が好きなんだ」
と思ったのであって、一目惚れという感覚からは、遠ざかっていた。そういう意味で、慶子は初めての一目惚れであり、それだけでも、
「慶子に対しての気持ちを、初恋と言ってもいいだろう」
と感じるようになった。
江崎の初体験は大学に入ってからのことだった。相手は先輩から連れて行かれたソープランドの女の子で、いわゆる「筆おろし」という儀式だったのだ。