タイム・トラップ
江崎はそれでもいいと思っていた。誰かと付き合ってベッドをともにすることがあっても、その時に自分が童貞でない方が、スムーズにいくと思っていたからだ。大学時代に付き合っていた女性とベッドをともにした時、スムーズにことを運ぶことができたが、なぜか感動はなかった。初めての時の方が、よほど感動したというものだ。
この頃から、
「セックスは好きな相手と」
という考えが、果たして自分に当てはまるのだろうかと思うようになっていた。それと同時に、
「感動しなかったのは、相手が本当に好きだったわけではないからなのかも知れない」
とも思った。
身体を重ねるまではうまく付き合ってきたつもりだったのに、身体を重ねてから、二人の間は急にぎこちなくなった。よそよそしい部分も出てきて、お互いに気を遣っているからだと思っていたが、どうも違うようだ。気を遣っていると思っていたのが、急にぎこちないと思うようになると、お互いの気持ちにすれ違いを感じてくる。そうなると、行き着く先は、
「自然消滅」
しかなかったのだ。
大学時代、女の子と付き合っても自然消滅してしまっていた場合のパターンは、いつも決まっていた。ぎこちなさやよそよそしさが、そのまま自然消滅に繋がってくる。
「こんなはずではなかったのに」
高校時代まで夢見ていた女性との付き合いは、いつも同じパターンでダメになってしまうという最悪の展開を見せていた。
別れが近づいてくると、
「ああ、またか」
と感じ、その思いを抱いてしまうと、もう修復不可能だった。別れのパターンは熟知しているくせに、その原因となるとまったく分からない。見当もつかないというのが本音であろう。
大学時代は、バラ色というよりm、限りなくグレーに近い暗黒だった。グレー部分が顔をだすと、その向こうに見えている暗黒が、自分の運命だと悟ってしまう。だから、暗黒だけではない。グレーに近いものだった。
「暗黒だけの方がマシだったのかも知れない」
なまじグレーな部分が見えていたので、余計な期待をしてしまっていた。
「どうせダメだろう」
という思いをギリギリのところで思いとどまらせたのだから、グレーも悪くないはずなのに、それを敢えて悪いことだと判断したのは、
「最後まで暗黒から逃れられなかったのは、グレー部分を意識してしまい、ひょっとすると、暗黒から抜け出すことのできたチャンスをみすみす見逃してしまったのではないだろうか?」
と感じたからだった。
「悪いことが、そんなに長く続くはずはない。いつかはトンネルも抜けるものさ」
と言っていた友達がいたが、まさにその通りだと思っていた。しかし、暗黒から結局は抜け出せなかったことに、江崎はその理由がずっと分からないでいた。
悪いことであっても、長く続いていれば、その原因に関しては、ほぼほぼ分かってくるものだったが、この時は分からなかった。
原因が分かる時というのは、最初に何か分かるきっかけのようなものをいつも感じていたのに、この時はまったく見当もつかなかった。だから抜けられなかったのだが、逆に抜けることができたのが不思議なくらいで、いつどのようにして抜けることができたのか、本人も分かっていなかった。
「原因が分からないと、また同じ状況に入り込んだ時、どうしていいか分からないじゃないか」
意識することもなく、いつの間にか抜けていたのはありがたいことではあったが、原因が分からないことの弊害を考えると、手放しに喜べるものではなかった。
卒業してから入った会社で、最初は一心不乱に仕事を覚えようとしてきたが、それも一段落してくると、大学時代のことを思い出すようになっていた。それは暗黒部分ではない表に出ているほんの一部だけを見ていたのだが、まるで昨日のことのように思い出せるのは不思議だった。
「大学時代の記憶を昨日のことのように思い出せるのに、本当の昨日のことの方が、さらに前の出来事のように思えてしまう。会社に入ってからというもの、一心不乱な時期のことはそれほど印象深くない。つまりは、いい意味でマンネリ化していたということだ。
マンネリ化にいいも悪いもないのかも知れないが、マンネリ化というのは、負の要素がふんだんに散りばめられている。
一日一日があっという間に通り過ぎてしまうわりには、後から思い出そうとすると、かなり昔のことのように感じてしまう。それだけ、何も考えていないということだ。
それに比べて大学時代は、暗黒の時代だったとはいえ、ずっと暗黒だったわけではない。甘い思い出のようなもの、そして、ちょっとほろ苦いものもあったはずだ。そんな点在する記憶を思い出そうとすると、感覚がまるで昨日のことのように感じるのは、少なくとも、マンネリ化はしていなかったということである。
江崎は最初、
「慶子とは、大学時代に知り合ってみたかったな」
と感じた。
もし、その時知り合っていれば、記憶の中にある暗黒時代とは少し違った大学生活を歩めたかも知れないと思った。しかし、それでも大学時代そのものが自分の中で変わっていたとは思えない。そういう意味では、最初に感じた、
「大学時代に知り合ってみたかった」
という思いが次第に色褪せてくるのを感じた。
「やっぱり、今知り合う方がいいんだ」
と感じ、
「人の出会いや運命には、それなりにすべて意味があるんだ」
という思いに変わっていった。
江崎は、慶子と今知り合ったことにも意味があると思うようになっていた。そして、自分がその時、結婚願望を抱いているということに気が付いたのだ。
慶子と付き合うようになって、彼女が結構なついてくるタイプであることが分かってきた。甘えられたり、ベッタリくっつかれたりするのが嫌な男性も少なくないのだろうが、江崎の場合は、甘えられたりなつかれたりするのは、ありがたかった。それだけ好かれている証拠だと思うからだ。
慶子とは、結構話も盛り上がった。お互いに言われると嬉しいと思っていることを、口にしているからではないだろうか。
「江崎さんとお話していると、ドキドキしてくるんです」
「どうしてだい?」
「江崎さんは、私が言ってほしいと思っていることを、結構口にしてくれているんですよ。だから、次はどんなことを言われるのかなって、いつも楽しみにしながらお話をしているんです」
「それは僕も同じさ。慶子の口から出てくる言葉で、僕は結構癒されていると思っているからね」
大学時代には、想像したこともないような会話だった。
だが、実際にしてみると、自然と言葉は口から出てくる。同じ自然という言葉でも、自然消滅とは、天と地の違いがあるというものだった。
二十代の頃の思い出は、大学時代の思い出と比べて鮮明なはずなのに、大学時代の思い出よりも、もっと前のことのように思えていた。確かに慶子との思い出は鮮明なものだが、暗黒で何も見えていなかったと思っていた大学時代にも、自分で意識していない外の部分で、記憶しているところがあったに違いない。
「大学時代に、慶子に似た女性と付き合ったような気がするな」