タイム・トラップ
それからというもの、ちょっとした危機であっても、一心不乱に立ち向かうという姿勢が江崎の中で確立していた。
大学を卒業して、最初の一年は、研修期間を含めて、仕事を覚えることにまい進していた。学生時代との違いを身に沁みながらだった最初の半年。ギャップを感じている時も、一心不乱にならないと、乗り越えられないと思うようになっていた。実際に仕事以外のことには目もくれず、仕事を覚えることに必死だったことで、最初の一年は、
「長いようで短い一年だった」
と思うようになっていた。
実際に過ごしている間は、一日が非常に長く感じられたが、一年が思い出となってみると、あっという間に過ぎたという思いが強かった。大学時代は、毎日があっという間だったような気がしていたのに、思い出として大学に入学した時を思い出そうとすると、かなり昔だったように思えるのだ。
しかし、大学入学の時のことを頭に思い浮かべてみると、その記憶はまるで昨日のことのようなのだ。
「思い出そうとすると、鮮明に思い出せることは、どんなにその時のことが過去の記憶のように思えていても思い出した時は、昨日のことのように思えるものだ」
と、感じていた。
だから、三十代になった今でも、研修期間中のことはかなり昔に感じられても、入社直後のことは、まるで昨日のことのように思い出すことができる。一心不乱に真面目に生きていると言える時期は、自分にとって、遠い昔の記憶でしかないのだった。
半年の研修期間後、配属部署が決まり、配属部署でも半年の研修があった。正社員ではあったが、配属部署ではまだまだ研修生扱いである。覚えなければいけないことはたくさんあるのだ。
その研修期間のことを思い出すことは今となってはほとんどない。そして、研修期間を終えて、やっと部署の一員と言えるだけの存在になったと思うようになると、それまでなかった気持ちの余裕が表れてきた。部署では一番の下っ端、ある意味、気は楽であった。
そうなってくると、それまでの一心不乱な自分を、自分で解き放つ時がやってきた。油断という言葉は言い過ぎかも知れないが、それまでの仕事に対しての姿勢も、会社の中での考え方も、それまでとはまったく違っていた。江崎はそんな自分の性格を、
「他の人とは違っている」
と感じ、決して悪い性格ではないと考えるようになった。
二年目にもやってきた新入社員の時期、前の年は新鮮な気持ちで迎えたものだったが、二年目にも、同じような気持ちがよみがえってくるのだった。
自分はすでに新入社員ではないのに入社式の日だけは、何年経っても、自分が新入社員だった頃のことを思い出す。
「新入社員なんて呼ばれているうちは、一人前ではない」
と先輩から言われたが、二年目まではまだその意味が分からなかった。三年目になってやっと分かってきたが、
「新入社員という言葉に対して、必要以上な新鮮さを感じていたんだ」
と思うようになったからだった。
新鮮さを感じることは悪いことではないが、
「新入社員だから許される」
ということを、心のどこかで感じていたように思う。そこには明らかな「甘え」が存在し、甘えを隠すため、自分をごまかすために使った、
「都合のいい言い訳」
だったのだ。
入社式の日だけ感じていればいいものを、それ以降も考えてしまうから、甘えや自分へのごまかしを、新鮮さという言葉で片づけてしまおうとするのだ。
新入社員でもなく、研修中でもなく、それでいて、部署の中では一番の下っ端。この時期は気は楽だが、一番自分の中では中途半端な時期だった。そして、この時期を乗り越えると、それまで感じようとしていた新鮮さを感じようとは思わなくなる。それだけ自分が会社や仕事に馴染んできた証拠でもあった。
慣れてくると、自分の中途半端な立場の中で一番最初に馴染めるようになるのは、
「一番の下っ端」
ということだった。
確かに一番の下っ端ではあるが、別にこき使われているわけではない。何かにつけて頼まれごとは増えたが、それも、一人前になるために通る道だと思えば、別に嫌な気はしなかった。
そんな中、まわりを見る余裕が生まれたことで、次に越えなければいけない難関は、人間関係だと思うようになっていった。江崎の配属された部署は、会社内でもアットホームな部署としても有名で、実際に中にいても、暖かさを感じられるのは幸いだった。
「だけど、それに甘えてはいけないんだ」
と自らを引き締めるつもりはあった。
だが、引き締めていたつもりでも、まわりの人懐っこさに、甘えとはいかないまでも、自分を曝け出す気持ちになっていたのも事実だった。
江崎が配属になった部署は、中堅クラスの人間が多かった。二十代は江崎一人で、四十代の頭から、三十代半ばくらいまでの人がほとんどで、同い年はおろか二十代に一人も男性がいないというのは、少し気がかりではあった。
女性社員も、三十代の女性が三人いて、昨年の新卒で入ってきた女の子が一人いるだけだ。彼女が入社した時、一緒に新卒で入学してきた女の子がいたらしいが、一年も持たずに辞めてしまったという。二人新入社員がいて、性格的にまったくの正反対だったという。早く辞めてしまった女の子は神経質な性格で、今残っている女の子は、おおらかな性格で、細かいことはあまり気にしない性格だった。
「残るとすれば、やっぱりね」
と、噂されるほど、二人の性格は違っていたという。江崎は次第に一人残っているその女の子に興味を持つようになっていた。お互いに二十代は自分たちだけだという意識があったからだろう。二人で食事に出かけるほどの仲になるまでに、さほどの時間は掛からなかった。
彼女の名前は、佐々木慶子と言った。高校を卒業しての新卒だったので、江崎より先輩ではあるが、年齢的には江崎の方が年上だ。慶子は江崎に対して敬語を使い、江崎はため口になっている。敬語を使ってくれる慶子に対し、自分の方からも敬語を使ってしまうと、会話がスムーズに進むことはないと思っていた。
江崎の方が敬語を使わないのは、お互いの暗黙の了解であり、まわりから見ていても、一番しっくりくる関係だった。
だが、仕事では先輩ということで、仕事という意味では、慶子の方が優れている。
「仕事は仕事」
と割り切ることができるのも慶子のいいところなのか、男性の先輩社員からも、頼りにされているようだ。
だが、仕事を離れると、慶子は甘えん坊なところがあった。
「会社の人に見られないようにデートしよう」
と、付き合い始めてから提案した江崎に対し、
「私は別に気にしないわよ」
と、大っぴらに甘えてくる素振りを見せた。
「江崎さんは、私を裏切ったり、捨てたりすることはないわ」
という慶子の中の自信がそうさせるのか、江崎には驚きの行動を取ったり、ハラハラさせられることもあったが、それも甘えからだと思えば嫌な気はしない。実際に江崎は慶子を裏切ったり、悲しませたりはしないと自分に誓っていたのだ。
江崎にとって、
「これは初恋だ」
と思えた。
それまで女性と付き合っていたことが、まるで遊びだったかのように思えたからである。その理由の一つは、