タイム・トラップ
かなり突飛な発想だが、記憶が曖昧だったり、物忘れをしてしまうのは、それだけ自分の中の記憶しようとする意識がしっかりしていないからである。ピントが合っていない状態でハッキリとした記憶など、できるはずもないだろう。
そんな時に、スナックの女の子から聞いた、
「初恋の人に似ている」
という言葉は、どこか自分の感覚にピッタリと嵌りこんでいる気がした。それが本当の自分の意志なのか、それとも、自分を客観的に見ている人の意識なのか、その時の江崎には分っていなかった。
大学生の頃が一番自分を主観的に見ていたかも知れない。だからこそ、十年以上経っても、大学時代の夢を見る。確かに印象深いことではあったが、今のように物忘れが激しかったわけではないということは、それだけ、記憶をボヤかせるものではなかったという証拠であろう。
最初、スナックの女の子の顔を思い出そうとしていたが、気が付けば思い出そうという意識はなくなっていた。
顔がハッキリと思い浮かぶようになったからではない。おぼろげな雰囲気でもいいと思うようになっていた。それよりも、今は他の女性の顔が頭の中に浮かんできていた。その女性の顔もハッキリとはしていないが、いつの記憶のものなのか、つい最近の記憶のような気がしていた。
「つい最近の記憶なのに、思い出せるというのだろうか?」
いつもだったら、かなり古い記憶でないと思い出せないはずなのに、ハッキリと思い出せそうな気がするのは、
「最近、意識していたはずなのに、思い出そうとしているのは、かなり遠い記憶だからじゃないのかな?」
と思うようになった。
ごく最近、遠い昔を思い出そうとして、その時に思い出せた記憶だけが、よみがえってきたとしても不思議なことではない。要するに、自分の中にある記憶が「二段階構造」になっているという発想なのだろう。
「だけど、浮かんでくる顔は、自分が見たという意識はないんだけどな」
自分の中のもう一つの記憶によるものなのだろうか?
考えてみれば、浮かんできた顔は、特徴と言っても印象深いものはなく、別に江崎の好みの女性というわけでもない。記憶に残っている方が不思議なくらい、江崎から見れば、
「平凡な女性」
にしか見えないのだ。
――それとも、平凡な女性ほど、印象に残るような頭の構造になっているのだろうか?
江崎は記憶や意識を、どうしても理論的に考えようとしてしまう。理屈が合わないと、納得できないという意識は他の人と変わらないつもりだが、他の人がスルーしてしまうようなことに、変にこだわってしまうことが往々にしてあった。
その女の子は、誰かに似ていた。なかなか思い出せないでいたが、
「待てよ。今までにも同じようなことを思った記憶があるな」
と感じた。
同じようなことというのは、
「平凡な女性なのに、印象に残っている人」
という思いと、
「ごく最近の記憶なのに、遠い昔の記憶を引っ張り出したように感じた」
という二つだった。
それを考えていると、今回のようなことを時々感じているような気がしてきた。いわゆる「デジャブ」である。
「デジャブ」というと、特殊なことのように感じるが、誰もが一度は感じることであり、一人の人が何度も感じていても不思議のないものだ。そう思うと、デジャブは決して特殊なことではない。逆に、同じことを何度も感じている時に、どうしてそのことを「デジャブ」とすぐに結び付けないのかの方が不思議だった。
やはり、意識の中でデジャブというのは、特殊なものだという意識が潜在しているからに違いない。
何度も同じことを考えていると、堂々巡りを頭の中で繰り返していると思えてくる。
ある意味、デジャブよりも、堂々巡りを繰り返してしまう方が、大きな問題だ。デジャブは、堂々巡りを繰り返している頭の中をリセットさせるために起こる、一種の「反動」のようなものだと考えるのは、突飛な発想であろうか。
記憶をよみがえらせるために堂々巡りを繰り返していると、自分の中にある記憶が、次第に捻じ曲げられているのではないかと思えてくる。ただでさえハッキリと思い出せない中で、ボヤけてしまっている記憶は、堂々巡りによって作り出されたものではないかと思うと、
「記憶を意識として考えていいのだろうか?」
と思えてくるのだった。
「記憶とは、時間という板を何枚も重ねた上に、意識という絵を張り巡らせて、動画のようにコマ送りに進めたものを目に焼き付けるのと同じで、頭の中に焼き付けることなのではないだろうか?」
江崎は、そう考えるようになった。
スナックの女の子のことを思い出していて、同じような感覚に陥ったことが今日だけではなく、今までにも何度もあったということを考え合わせていくと、前に結婚したいと思ったことがあったのを思い出した。
あれは、二十代の前半のことだったが、無性に結婚願望が激しかったことがあった。
最初は、相手は誰でもいいと思っていた。ただ結婚願望があるだけで、誰が好きだというわけでもない。
元々江崎は、
「俺は本当に女性を好きになったことってあったんだろうか?」
二十代前半に、ふと感じたことだった。大学時代には、何人かの女の子と付き合った経験がある。すぐに別れたりしたわけでもなく、別れの時もお互いに嫌いになったというわけではなく、最終的には自然消滅だった。それを、
「お互いに嫌いになったわけではないので、恋愛としては成立していたんだ」
と思っていた。
しかし、考えてみれば、
「嫌いになったわけではないということは、逆に言えば、好きになったというわけでもなかったのかも知れない」
と思った。
「好きになったわけではないので、嫌いになるわけもない」
という発想なので、本当にそれが恋愛だったのかということに疑問が生じなかったのは、
――若さゆえ――
だと言えるのではないか。
特に大学時代というのは、気軽な人間付き合いのできる時期で、男女関係も、お互いにすれ違いがあってもしかるべくなのに、すれ違いを感じなかったということは、それだけ相手のことを思っていなかったという証拠であろう。
そういう意味では、自然消滅というのは、大学時代では一番ありがちだったのかも知れない。
「喧嘩別れしたわけではないので、恋愛としてはうまい付き合いだったのかも知れない」
と感じた。
まさか、真剣に考えていないからだなどということは思ってもみない。
「恋愛とは育むもので、今すぐに真剣に考える必要もない」
という考えもあった。
そんな思いが、恋愛に対しての「逃げ」の思いだったということに気づくはずもない。
特に大学時代に、結婚の二文字を考えることもなかった。大学時代にずっと付き合っていて、卒業してからも付き合っていけるような相手なら、結婚も視野に入れることになると思っていた。
大学を卒業する頃というと、江崎は自分の人生の中でも、最初に訪れた「危機」だった。乗り越えることができたのは、他のことには、一切目もくれずに勉強と就活に専念したからで、そんな状況に追い込んだのも自分なので、誰が悪いというわけではない。覚悟を決めて事に臨むことで、何とか切り抜けられた。