タイム・トラップ
もう一人の自分が気づかないだけで、他の人には存在感があり、ただ、意識していないだけだというのであれば分かる気がした。
そういう意味で、他の人には気づかれていると思うと、この時代が、自分の知っている二十代の世界とは、かけ離れていると感じたことを裏付ける形になっていた。
江崎は、この時代で、もう一人の自分とは別人として生きていかなければいけないことに気づいた。
幸い、タイムマシンでこの時代に来た時、軍資金は桜井から貰っていた。
「どうしたんだい? このお金」
彼は不敵な笑いを浮かべていたが、後から考えれば、何んら不思議はない。
通説ではタブーとされていることだが、タイムマシンを使えば、「金儲け」など簡単なことだ。
ある時期のギャンブルを確認し、その前の時代に戻って、結果に伴った券を買えば、儲かるのは当たり前だった。軍資金はそうやって手に入れたのではないだろうか?
最初は、タブーで手に入れたお金を使ってもいいのかと思ったが、大体タイムマシンで過去に戻ること自体がタブーだったはず。一度破ったタブーを二度破るのも同じことだと思えば、気にもならなかった。
「悪い意味での感覚がマヒしてしまっているのかも知れない」
と思えた。
しかし、それでも、背に腹は代えられない。過去に戻ると決めた時点で、
「何でもあり」
の自分に目覚めなければいけなかった。
二十代の頃の自分と今の自分の一番の違いは、
「何でもあり」
という気持ちになれるかなれないかだと思えた。
二十代の頃も、何でもありの気持ちになりかかったことがあったが、結局なることはできなかった。どうしても、常識が頭の中で邪魔をするのだ。
「だから、今の自分がもう一人の自分だということが分からないのかも知れない」
明らかに二十代の自分は、こちらが見えているようには思えない。
「石ころのような存在なのか?」
道端に落ちている石ころは、目の前にあっても、その存在を意識することなどありえない。
「そこにあって、何ら不思議のないもの」
という意識があるからだが、二十代の江崎にも、同じような意識があるのではないだろうか。そう思うと、彼がこちらに気づいていないという考えが怪しくなってくる。本当は気づいているのに、意識していないだけのことなのかも知れない。
もし、彼が自分を意識するようになれば、自分をもう一人の自分だと気づくかも知れない。
気が付いても、信じられるかどうかは次の段階のことで、信じられたとして、
「僕は気が変になったんじゃないか?」
と思うかも知れない。
少なくとも、段階を経てでしか、もう一人の自分を意識することはできないだろう。その間にどれほどのことを考えることになるのか、想像もつかないが、たくさん考えれば考えるほど、複雑になっていく考えや可能性をいかに整理できるかということが、問題なのではないだろうか。
――今の二十代の自分に孤独は感じられない――
この時代の人全員に言えることだが、そう思った時、やはりこの世界は自分の知っている世界ではないということを再認識した気がした。
――間違えてこの次元にやってきた?
とも思ったが、桜井が間違えたとは思えない。彼には彼なりの意図があったのだろうが、自分の知らない世界の自分を見ることで、江崎は、
――もう一度人生をやり直す――
ということがどういうことなのか、再認識してみようと思うのだった。
今、二十代に戻ってきた江崎は、孤独を感じることもなく、この時代を生きようと思っていた。
「孤独を感じるのは、一人になったからではなく、自分が信じられなくなった時なんだろうな」
そう感じるようになったのは、五十歳まで生きてきた自分ではなく、五十歳の気持ちのまま二十代の世界に戻ってきて初めて感じるものだった。
最初に鏡を見た時、そこにいるのは、二十代の自分に似てはいたが、他の人が見れば自分だと分からないような「同年代」の男性だった。しかし、しばらくして鏡を見ると、そこに写っているのは、五十歳になった自分だった。しかし、同じ五十歳でも、この時代にやってくる前の自分の顔ではない。似ているという意識もなかった。
「この時代を三十年生きると、こんな顔になるのかも知れないな」
そう感じると、この時代が元々自分が辿ってきた二十代とは違う世界であるということを確信した。
だが、鏡の顔を見ていると、
「どこかで見たことがあるような顔だな」
と感じた。
「まさか、桜井信二?」
江崎の中にある記憶を紐解くと、その顔は桜井信二の顔だった。最初は信じられない気持ちだったが、気持ちが落ち着いてくると、
「俺が成長すると、桜井信二になるのかな?」
と思い、さらに感じたのは、
「えっ? 今、『俺』って言った?」
普段は自分のことを「僕」か「私」としか言ったことのない江崎は、自分のことを、「俺」と表現する人に対して、意識が強かった。だから、桜井が自分のことを「俺」と表現するのを意識して聞いていた。鏡を見て、そこに写っているのが桜井信二だということを感じたとたん、彼のような口ぶりになったということは、
「最初から自分の顔が桜井信二に似てくるという予感めいたものがあったのかも知れないな」
と思えてきたのだ。
それと同時に感じたのは、
「僕は人生を決して繰り返しているわけではない。別の人間になって、この時代にやってきた」
という思いであった。
しかし、それでも、二十代を生きている元々の自分に影響が及ぶようなことがあってはいけない。
江崎はこの時代にいる二十代の自分を探していたが、それよりも先に、意外な人間を見つけた。
最初にこの時代の自分を見つけるには、会社への通勤途中を探すのが一番だと考えた。会社に入ってしまうと、呼び出しをかけないと自分が出てくることはない。陰からこっそり覗こうとしている自分に、呼び出すことはタブーだった。そうなれば、通勤途中しかない。三十年前に乗っていた電車に乗るところを探すのが一番だった。
さすがに通勤ラッシュ、意外と三十年前よりも混んでいるように思えた。それは外から眺めているからそう思うのか、人間が押し潰されている光景を見ながら、思わず顔をしかめてしまう江崎だった。
探してみると、なかなか見つかるものではない。尋常ではない朝の通勤ラッシュに目を覆いながら、それでも、自分の姿を追いかけていた。
なかなか見つからないのは、どうしても自分だけを探そうとするので、無意識にピンポイントにしか視線が向いていないからだろう。
江崎も気が付けば人に揉まれて、ラッシュに入り込んでしまっていた。この間鏡で見た時は五十歳代に見えたが、体力は二十代のようだった。
――ひょっとして今鏡を見れば、二十代なのかも知れないな――
と感じたが、何とかラッシュに揉まれながらではあったが、電車に乗ることができた。