タイム・トラップ
江崎は鏡に写った自分の顔から、しばし目が離せなくなっていた。
――どこかで見たような気がするんだけどな――
そういえば、桜井が江崎に対して注意していたことがあった。
「二十代に行ってから、最初にビックリすることがあるんだが、それは自分で考えている常識を覆すものであり、すぐには受け入れられるものではない。でも冷静に考えれば分かってくることなので、その時は落ち着いて考えてみればいい。孤独を感じるかも知れないが、そこは通らなければいけないところなので、慌てることはない。まずは気持ちを落ち着かせることが先決だね」
そのセリフを聞いた時、半信半疑で桜井の顔を見たが、
「俺は何もかもお見通しなんだ」
と言わんばかりの表情に、江崎はまるで
「ヘビに睨まれたカエル」
だった。
微動だにできなかったが、動かないことが正解で、怯えがあったが、冷静になればヘビも怖くはなかった。
そうでなければ、二十代になどやってくるはずもない。確かに、
「人生をやり直せるならやり直したい」
と感じていた江崎だったが、二十代の自分はそこにいて、違う人生を歩むことになる過去に戻った自分が、どのようにして三十代になり桜井に出会うかということが最初の目標だった。
しかし、実際にタイムマシンに乗ってしまうと、その思いはかなりの軌道修正を余儀なくされた。
まずやってきた二十代の世界は、自分が経験したと思っている時代とは、若干違っていた。
――どこが違うというのだろう?
と考えてみたが、考えれば考えるほど、五里霧中になるのだった。
なぜなら考えが深まるほどに、自分の記憶している二十代はおぼろげになっていき、目の前に繰り広げられる時代が、意識の中で幅を利かせてくる。過去の記憶よりも、目の前で展開されていることこそが真実であり、
「事実と違っていることも真実になるんだ」
ということを思い知らされたような気がした。
時代背景も若干違っている。あの時代はまだまだ活気のある世界だったはずなのに、街を歩いている人たちに活気は感じられない。
「活気を感じるには、自分がもっと二十代の頃の気持ちに戻る必要があるのではないだろうか?」
と思ったが、どのようにすれば戻れるのか、見当もつかなかった。
だが、本当に二十代の頃の精神状態に戻る必要があるのだろうか?
確かに二十代にタイムマシンに乗ってやってきた。そこにいるのは、確かに自分が知っている二十代の世界だった。だが、しょせんはよそ者意識を拭い去ることはできない。少なくとも、そこから三十年という月日を重ねて、年齢も重ねてきた。あっという間に過ぎてしまったという意識はあるが、一言で言い表せるほど単純なものではないはずだ。
そんな江崎は、やはり最初にこの時代に生きている自分を探した。
――どうせ、自分が未来の自分だなどと分かるはずはないんだ――
タイムマシンの開発が遅れたのは、過去に行った場合、歴史を変えてしまう恐れがあるという「タイムパラドックス」が解決しない限り、実用化はありえないと思われていたからだ。その考えには江崎も賛成で、下手な研究のせいで、歴史が狂ってしまい、自分の存在がなかったことになってしまうのが恐ろしかった。
だが、過去に戻った自分が、その時代の自分と似ても似つかぬ人になっていれば、タイムパラドックスが引き起こされることもない。そう思ったのは、実際に二十代に戻った自分が鏡を見て感じたことだった。後からの告知であっても、納得できる内容であれば、受け入れることは可能ではないだろうか。
この時代の自分を探してみたが、すぐには見つからなかった。どうしても歴史の誤差が生じているのか、それとも記憶の曖昧さが露見したのか、どちらにしても自分が思っていた自分ではなかったのだ。
――何となく、一抹の寂しさを感じるな――
一人でいる時は、孤独のオーラを発散させることもあるのだろうが、一人でいる自分を見ていると、寂しそうにはしているが、「孤独のオーラ」を感じることはなかった。
――孤独は、表に発散させてこその孤独なんだ――
と、ずっと感じてきた江崎だが、二十代の自分を見ていると、孤独の二文字は当てはまらない気がした。無表情で何か思い詰めているように見えるので、孤独を感じさせられそうなのだが、実際には違っている。それは、自分だけに限らず、まわりの人間みんながそうなのだ。
――この世界には、孤独という概念は存在しないのか?
と感じたほどだった。
しかも、他の人はタイムマシンでやってきた江崎を見ても、誰も顔を見ようとはしない。まるで存在を分かっていないようだ。
――気配を感じてくれていないのかな?
とも感じたが、
――この時代にはいるはずのない自分が存在しているのは、特定の人間にしか分からないのかも知れない――
と思った。
特定の人間がどこまでを指しているのか分からないが、少なくともかなり限定された範囲でしかないように思えた。だからこそ、自分がこの時代に存在できるのだし、きっと、自分がこの時代に何か影響を与えることがないように、見えない力が働いているに違いない。
やっとこの時代の自分を見つけて、わざと目の前を通り過ぎてみた。こちらがかなり意識しているようなオーラを発しているにも関わらず、この時代の自分は、タイムマシンでやってきた自分を意識していないようだ。
――これでいいのか?
と感じたが、それは自分がこの時代に影響を与えることはないというホッとした思いと、何のためにこの時代にやってきたのかを考えると、複雑な気持ちだった。
――何のためにこの時代にやってきた?
その思いが次第に薄れてくるのを感じた。
――自分にとって一番よかった時代に戻って、もう一度人生をやり直す――
という思いがあった。
しかし、この時代にやってきた自分は、確かに二十代の顔になっているが、精神的には五十代の記憶を持ったままの自分である。ある意味、
「余計な記憶」
を持っているのである。
最初は、
――五十代の記憶を持っていれば、同じ過ちは犯さない――
と思っていたが、しかし、五十代の自分が過去を振り返って、
――過ちって何だったのだろう?
根本的なところを分かっていないまま、過去に戻ってきたのだ。やり直す以前の問題であり、そのことに気が付いたのは、二十代に来てからだというのも、何とも皮肉なことだった。
過去に戻った江崎は、桜井の言葉を思い出していた。
「そういえば、元の五十代に戻ってくるまでに、いくつかのミッションを達成しなければいけないと言っていたような気がしたが、ミッションというのは、一体何なのだろう?」
しかし、来てからいきなり分かるはずもない。簡単に分かってしまうものであれば、ミッションでもないように思えたからだ。頭の隅に置いておくことにして、なるべく忘れないようにしようと思った。
江崎は、もう一人の自分が今の自分に気づかないことが不思議だった。他の人が気づかないのは仕方がないとしても、自分が気づかないのはおかしなことである。
しかし、逆も考えられた。