タイム・トラップ
五十歳になって、今の同僚と話していると、三十代の頃に松永と話していた頃のことを思い出してくる。話の内容も似たようなもので、江崎にとっては、目からウロコが落ちるようなものだった。
江崎にとって今の同僚と、小説同人誌の彼とでは、どちらもいい話相手だ。
「どちらがいなくても、きっとつまらない五十代なんだろうな」
と思っていた。
思いを馳せていたことに対して、急に冷めてしまった自分を感じただけで、
「本当につまらない人生だ」
と、半ば投げやりな気分にもなっていたのだ。
そういえば、
「二十代からやり直したい」
と思ったことがあった。
それは、五十歳になった今でも結婚していないことが一番の原因である。
二十代の頃には結婚してもいいという女性がいた。慶子のことである。表面上は自然消滅のような形で別れたが、その時の心境は思い出せそうで、なかなか思い出せない。思い出そうとしている自分に対して、潜在意識が思い出ささないようにしている。そこに、もう一人の自分が存在しているようだった。
そういう意味では今も、もう一人の自分を感じる。それが、
「二十代からやり直したい」
と思っている自分だ。
確かに、過去に戻って、もう一度やり直したいと思っている人は少なくない。表面上は分かりにくいが、気持ちが強そうだ。江崎の場合は、まったく過去に戻りたくないというすべてに冷めてしまっている自分と、本当にやり直したいと思っているもう一人の両極端な自分がいるように感じていたが、
「きっとまわりから見ると、自分がまわりに感じているのと変わらなく見えるんだろうな」
と感じたが、それは逆に、
「誰もが、同じ思いを持っていて、もう一人の自分の存在を意識しながら、認めたくないというジレンマに陥っているのかも知れない」
と、感じているように思えてならなかった。
その思いを感じさせたのは、小説を書いている彼だった。
「この人、ひょっとして、自分の知っている人の『もう一人の自分』なのかも知れない」
と感じた。
――自分の知っている人――
思い浮かぶのは一人しかいなかった。
そう、それは三十歳の頃同僚だった、松永である。
松永は言った。
「そうだよ。俺はこの間まで五十歳だったんだ」
という言葉を……。
その言葉の意味が、やっと今になって分かった。
そして、その言葉の意味を理解したのは、この年齢で冷めてしまった自分ではなく、過去からやり直したいと思っているもう一人の自分だった。
「どっちが、本当の自分なのだろう?」
松永を意識しなければ考えることもなかったことだ。お互いに裏が表に出てこないと、出会うことがなかった二人だったのではないかと感じていた。
江崎は今、二十代の頃を思い出していた。頼子のことをである。
今までに頼子のことを思い出すことは何度かあったが、今頼子を思い出している自分が五十代の自分だとは思えない感じがした。三十歳代の時に結婚してもいいと感じていた慶子を思っている自分がいる。
今から思っても、慶子とは自然消滅だった。しかし、本当に自然消滅だったのだろうか?
江崎が考える自然消滅は、別れる時の理由が謎だという意識の元に存在している。
しかし、今思い出している慶子との別れの理由が何であったかというのは、忘れてしまっていたが、そこに理由が存在したことに間違いはない。謎ではなかったのだ。
その思いが江崎にジレンマを引き起こしてしまった。そのジレンマは、慶子を思い出す時には必ず頼子のことも意識している。逆に頼子を思い出す時にも、必ず慶子のことを意識している。
二人は江崎にとって背中合わせになっている存在であり、決して二人はお互いを知ることはない。他の誰も二人の関係性を知る者もない。知っているのは江崎だけ、誰にでも同じような思いを抱く人がいるのかも知れないが、江崎にとって、特別な思いがそれぞれ二人にはあったのだ。
ただ、松永は慶子のことは知っている。つまり、五十代になって出会った桜井信二と名乗る小説家も、慶子のことを知っているに違いない。
そう思って江崎は、桜井信二の作品を読んでみた。一度は読んだことのある作品であっても、今度はまったく違った見方で見るのだから、かなり違って感じられるに違いない。桜井信二の本性が、小説を読んでいるうちに浮き彫りにされるのではないかと思うと、落ち着いてもいられなかった。
桜井信二の小説は、奇妙な話が多い。最初、
「どう取っかかっていいのか、小説の主題から見ていくと、次第に深みに嵌り込んでいく自分を感じたものだ」
と思っていたが、どうやら、彼の小説は、最初から、
「理解しよう」
と考えると、掴みどころのない内容に翻弄されてしまい、主題を見ようとしていた自分すら見失ってしまっていて、読み終わった後に、何も残っていないことに気づかされる。
他の作者の小説であれば、
「よく分からない小説だったな」
と思い、読んだことを後悔したり、時間の無駄だったと感じたりするのかも知れないが、桜井信二の小説は、
「もう一度読んでみよう」
と思わせる数少ない小説ではないだろうか。
「このまま分からないままだと、ストレスが溜まってしまう」
と感じさせられる。それこそ、作者の思うつぼではないだろうか。
そのことを本人に話すと、
「買いかぶりすぎだよ。俺はそんなつもりで書いているわけじゃない。ただ、思ったことや見てきたことを文章にして、それをつなげているだけさ」
「そのわりには、あなたの小説は、時系列に沿っているわけではないんじゃないですか?」
「別に時系列に沿ったものを書いているわけではない。ただ、いわゆる『時系列』が本当に起こったことをそのまま流れるように表現しているわけではないと思うんだ。時には時系列を、無視することで、忘れてしまいそうなことを忘れずに、しっかり理解したままでいることだってできるんだ。そういう意味では、時系列を重視して書いている小説は、読んでいるうちに最初の頃のことを忘れてしまう」
「どうしてそう思うんですか?」
「時間軸というのは、年輪や音波のように、等高線に張り巡らされているような気がするんだ。だから、それを一線超えるだけで、思ったよりも過去に戻ったような気がする。時系列は、遠くなればなるほど時間が経っていることになり、時間が経っていればいるほど、遠くなっているように思うんじゃないかな?」
「それって当たり前のことなんじゃないですか?」
「誰がそんなことを決めたんですか? 確かに、一般的にはそうかも知れないけど、一般論だけが正義だというような考えは危険であり、愚かな気がするんですよ」
彼に言われると、
――まさしくその通りだ――
と感じてしまう。
彼とそんな話をしたのは、彼が書いた小説を何作品か読んだ後だった。
読みながら、彼に興味を持ったのも事実で、何よりも年齢が近いのが意識してしまう理由だった。
――同じ時代を別々に歩んではきているが、誰よりも考え方が近いのではないだろうか?