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タイム・トラップ

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 少し意外だったが、別に必ず一緒に来ようと約束していたわけではない。考えてみれば、一緒に来なければいけないと思っていた方がおかしかったのだ。
 そんなことを考えていると、思わず思い出し笑いをしてしまった。
「どうしたの?」
 女の子が興味深く覗き込んでくる。
「いや、何でもないよ」
 と、答えたが、またしても、笑いが零れた。何がおかしかったというわけではないのだが、どこかくすぐったいような気がした。
――一人で来るのも、悪くないかな?
 と感じたのは、このくすぐったい気持ちは同僚と一緒では味わえるものではないということと、ドキドキしている気持ちがくすぐったさと結びつくと、今まであまり話ができなかった自分が、急に饒舌になれるのだと思ったことだった。
 その時の話題が、初恋についてだった。その頃の江崎は、二十代の半ば頃、初恋がいつのことだったのか、自分でも分からないでいた。しかし、人に話すことで自分の初恋がいつだったのか、教えられた気がした。今まで知らなかった自分を発見することもできて、江崎は有頂天だった。
「初恋がいつのことだったのかって、俺はいつも考えているんだ」
「私もそうなんですよ。初恋の話を始めると、いつも聞き手に回ってしまって、話題を振られても、いつだったのか分からないって答えるしかできなかったのよね。でも、人と話をした後に一人になると、いつが初恋だったのか、分かったような気がするの。でも、一日経つと、結局前のように分からなくなるんですけどね」
 と、言って笑っていた。
 その話を聞いて、黙って頷いていた江崎だったが、心の中では、
「まさに、その通り」
 と答えていた。
 その頃から江崎は、物忘れを気にするようになっていた。元々、人の顔を覚えるのは苦手な方だったが、物忘れというのを気にしなければいけないほど、覚えられなくなってしまっているとは自分でもビックリだった。
――初恋がいつだったのか分からないのは、物忘れのせい?
 と思ったが、子供の頃は、人見知りの激しい子供だった。
――馴染める人には徹底的に慕う方なのだが、馴染めない人には「けんもほろろ」に応対していたような気がする――
 と、感じていた。
 江崎が一人で来るようになって、初恋の話をした女の子は、江崎に興味を持ったようだった。江崎も、
――どこか気になる相手――
 という思いがあり、気になっていた。
 そんな二人が同伴出勤するようになるまで、それほど時間は掛からなかった。
「江崎さん、私の初恋の人に似ているの」
 という一言が、江崎の心に突き刺さった。自分は初恋がいつだったのか忘れているのに、初恋の相手を覚えている彼女が羨ましいという思い。そして、そんな彼女の初恋の相手に似ていると言われて、素直に嬉しい気持ち。しかしその反面、その相手が自分ではないという現実に、本当の初恋の相手に嫉妬してしまったという思い。それぞれ複雑に入り混じってしまい、その時は、素直に彼女の気持ちに向き合うことにしようと思っていた。
 その女の子はスナックの中でもロマンチックなタイプだった。
――夢見る少女――
 が、そのまま大きくなったような感じなのだが、そういう女の子は、意外と男性から疎ましく思われるかも知れない。
 仲良くなるには早いかも知れないが、もし、別れなければならなくなった時、結構面倒臭いに違いないからだ。しつこく付きまとわれたり、嫉妬に狂ったりする人もいるという話を聞くと、手放しでは喜べないだろう。
 しかし、一度相手を信用したり、好きになってしまうと、前が見えなくなってしまうほど思い入れが激しくなるのが、江崎の性格だった。自分を信用できない代わりに、他人を信用していると言えば聞こえはいいが、相手を信用する自分が信用できないのだから、信用するということにどれほどの信憑性があるのか、分かったものではなかった。
 やはり、自分を信用できないのは、物忘れが気になってきたからなのかも知れない。
 人から、
「この間、自分で言ったことも、覚えていないの?」
 と言われて、まったく言い返すことのできない自分が情けない。相手は、決してひどく怒っているわけではないのに、どうしても気になってしまうのは、
「物忘れが激しいと、信用してもらえない」
 という思いがあるからだ。
 人に信用してもらえないことよりも、まず、自分で自分が信じられない。
「自分のまわりの人たちは、皆自分よりも優秀なんだ」
 と、感じていることに、時々ハッとしてしまう。そうなると、それからしばらくは、誰とも口が利けなくなってしまい、まわりに人を近づけないというオーラが、まわりに渦巻いているようだ。
 そうなってしまうと、子供の頃を思い出そうとしてしまう。物忘れが激しいくせに、子供の頃のことは、結構覚えていたりする。
――遠い過去のことは覚えているのに、最近のことをすぐに忘れてしまう――
 というのが、江崎の物忘れの「正体」だった。
 ただ、最近のことを覚えていないのだから、子供の頃の記憶が間違っていないと言い切れない。真実とは違う形で、記憶に残っているのかも知れない。それでも、江崎は子供の頃のことを思い出そうとする。
 それは、思い出しているうちに、子供の頃のことが、昨日のことのように思えてくるからだ。
 しかも、その記憶は時系列がしっかりしている。思い出している間は、まるで夢を見ているように、記憶の中の世界に、自分が入り込んでいるのを分かっていたからだった。
 だが、それも思い出そうという意思が働いているからで、漠然と考えているだけでは、まるで黒いベールに包まれているかのように、時系列どころか、
「これが本当に自分の記憶なのだろうか?」
 と、その曖昧さに、疑ってみたくなるほどなのだ。
 一番思い出す夢としては、大学卒業の頃が多かった。大学時代、結構遊んでしまったツケが回ってきて、卒業が危うかった。
 原因は分かっているつもりだった。
 あまり要領のよくない江崎は、高校時代と同じ要領で勉強していた。大学というところは、勉強するだけではなく、情報やコミュニケーションが大いに役に立つ。勉強というよりも、社会に出てからの「世渡り」に似たところがある。江崎は中途半端に真面目なところがあるので、生真面目に勉強していたため、試験に出るところが分かっていたにも関わらず、そこに気づかずに、とんちんかんな勉強をしてしまい、試験は散々だった。
 これを要領という言葉で表すのは弊害があるかも知れないが、無駄な努力をしていたことに変わりはなかった。意固地にならず、まわりの話を聞いていれば分かったものを、要領だけでいい成績を上げることには、抵抗があったのだ。
 この頃から、自分に共感してくれる相手としか付き合わなくなった。大学であれば、共感してくれる人は少なくなかった。どちらかというと自分では「異端児」のように思っていた江崎は、一種の「お山の大将」気分だったのだ。
 そのツケが卒業間際で回ってきた。
 就活しなければいけないのに、卒業も危うい状態。どちらもおろそかにできない状況に、自分でも何をどうしていいのか分からなかった。
作品名:タイム・トラップ 作家名:森本晃次