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タイム・トラップ

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第一章 三十代

「三十代後半を過ぎると、後はあっという間だよ」
 と同僚は嘯いているが、まさしくその通りだった。
「まるで経験者のようじゃないか」
 というと、
「そうだよ。俺はこの間まで五十歳だったんだ」
 酒の席での話だったので、軽く聞き流していたが、興味をそそられる話というよりも、さらに真に迫った話だったので、忘れることはできなかった。その同僚から連れていかれたスナックは、同僚もさほど来たことがないと言っていったが、女の子とは本当に馴染んでいて、同僚の人懐っこさが出ているようだった。
「五十歳ってどんな気分なんですか?」
 調子に乗って、女の子はその話に乗っていた。
「いやぁ、今と変わりはないよ。確かに身体はいうことをなかなか聞いてくれないところもあったが、それ以外の精神的なものは、三十代後半とほとんど変わらない」
「じゃあ、三十代後半って、どんな感じなんですか?」
 今度は別の女の子が口を挟んだ。どうやら、この唐突な話に店の女の子は十分に興味を持ったようだ。
「三十代の半ばからは、人生の折り返しって感じがしてくるんだよ。それまでずっと上ばかり見てきたものが、下も気にするようになって、次第に上よりも下の方が気になってくる。これは年齢的なことだけではなく、生活でも言えることなんだ。二十代の頃に夢見ていたことと現実の間にどれだけのギャップがあるか、上を見るか下を見るかで、結構切実な思いになるものなんだよ」
 同僚の話は、抽象的だった。
 元々、理論的な話を好む同僚は、ストレートなモノの言い方をしない。漠然とした話をすることで、人に興味を抱かせ、気が付けば、自分のペースに引き込んでいるようなタイプだった。営業ではそのやり方が功を奏して、業績は決して悪い方ではない。
「松永さんは、独身なんですよね?」
 松永というのは、同僚のことで、彼女のいうとおり、独身だった。
「ああ、そうだよ。独身の方が気が楽だ」
 と嘯いている。
「こいつも独身なんだよ。なあ、江崎」
 そう言われて、どう答えていいのか困っていたが、江崎はそこで初めて口を開いた。
「そうだな。でも俺はお前とは違う理由で独身なんだけどな」
 一瞬、女の子たちの表情が硬くなり、緊張が走ったような感じだったが、江崎に悪気のないことは、かくいう松永が一番よく分かっていた。
「そうそう、俺の場合は、単純に結婚したいと思える相手がいないのと、まだまだ遊びたいという気持ちの強さからなんだが、江崎の場合は、忘れられない人がいるからなんだったよな」
「へえ、そうなんだ。江崎さんって、ロマンチックなんですね?」
 女の子には、誰かを一途に思い込んでいる女性がいるという男性が、眩しく見えるものらしい。特にスナックに勤めている女の子には、ロマンチックな話は、女心をくすぐるものらしい。
 テレながら頭を掻いている江崎を見ながら、女の子は熱い視線を浴びせている。何となく男冥利に尽きる気持ちになっている江崎だったが、そんな時、口を挟むことなく黙って笑顔で見つめているところは、松永の一番いいところだった。
 松永は、思っていることを結構口にしてしまう方なのだが、あまり敵がいないのは、そんな心配りが、空気を読める男として、一目置かれているからなのだろう。その思いを一番よく理解しているのは、江崎なのだろうと、江崎本人は感じていた。
「君たちは、初恋のことを覚えているかい?」
 江崎はビックリして松永を見つめた。まるで自分の心の中を覗かれているようで、少し不気味な気がしたが、まったく悪びれた様子を見せない松永を見て、
――気にしすぎなのかも知れないな――
 少し神経質になってしまっている自分を感じながら、松永はまた黙り込んでしまった。最初は何を話していいのか分からずに黙っていたのだが、今度のは、自分が完全な聞き手に徹するという意味で黙っていた。松永がそのことを察しているかどうか分からないが、ここまで一緒だった松永なので、大体のことは分かっているのではないかと思える。とりあえず、様子を見ることにした。
「私は覚えているわ。小学五年生の頃だったかしら? 好きになった男の子がいて、彼も私のことを意識してくれていたんでしょうね。ある日急に好きだって言われたのよ」
「小学生で?」
「ええ、だから半分嬉しかったけど、あまりにもストレートだったので、ビックリしたというよりも、変に冷めてしまった気分もあったみたいなの」
「冷めた気分が分かったの?」
「ええ、テンションが下がってきたというのかしら。ひょっとして、タイミングが少しでもずれていると、よかったのかも知れないけど、あまりにも嵌ってしまったことで、それまでの夢見ていた思いが、すべて現実に感じられたの。それが一番の原因だったのかも知れないわ」
「確かにタイミングがドンピシャで嵌ってしまうと、急に冷めることもあるらしいね。しかも初恋だと、自分がただの夢を見ていたということに気づいてしまったんだと思うよ」
 松永は、そう解説した。
「じゃあ、君は?」
 もう一人の女の子に聞いてみた。
「私の場合は、どれが初恋だったのか分からないの。小学生の頃に確かに好きな子がいたんだけど、一度も口を利いたことがなかったの。中学生になって告白してきた男の子がいて、流れで付き合ことになったんだけど、すぐにぎこちなくなって、お友達でもいられなくなったのよ。その後は何人もの男の子とお付き合いしたので、初恋という気がしなかったわ」
「えっ、一度に数人と付き合っていたの?」
「そんな時期もあったわ。私、言い寄られると、嫌とは言えない性格だから……」
 と言って、モジモジしながら答えていた。その様子を見ていると、江崎は彼女に、
――この娘は、本当の自分を分かっていないのかも知れないな――
 と感じ、気の毒な気分になっていた。
 この店の女の子は、初恋に関しては両極端なところがあるが、話を聞いている限りでは、考え方は似ているようだ。性格的に似ていないところに引き合うところがあるのかも知れないと感じた江崎だった。
 二十代の頃には、結構スナックに通ったこともあった。あの頃はまだまだバブル経済に浮かれていた時期で、給料や賞与も満足の行くものだった。仕事も充実していて、心地よい疲れを癒すという意味でも、その頃の同僚と、よくスナックに通ったものだった。馴染みの店も数軒あったが、途中からは同僚と行くよりも一人で通うことが多くなった。それは同僚も同じことで、なるべく同じ店に同じ日には行かないようにしていた。お互いに、一人で通うことの楽しさが分かったようだ。
 一人で通うようになったきっかけは、同僚と二人で行くつもりだったのに、急に同僚が残業で行けなくなったからだった。一人で帰ってもしょうがない。せっかくスナックに行くつもりだったので、そのテンションを保ったまま、一人で行ってみた。もちろん、スナックに一人で通うなど初めてだったが、馴染みの店ということもあって、敷居が高いわけではなかった。
「あら、江崎さん。今日はおひとり?」
「ええ、同僚が残業なものでね」
「そうなんですね。でも、彼はおひとりで来られることもありましたよ」
「え? そうなの?」
作品名:タイム・トラップ 作家名:森本晃次