タイム・トラップ
「過去のことを知っているのは当たり前なのに、過去の人間が未来に来ると、未来の人間が過去を知っていて当然だと感じる以上に、過去の自分が未来から来た自分に出会うと、
『僕は未来のことを知っているんだ』と感じる」
と思うのだが、しかも、その記憶は未来の人間が過去を思い起こすよりも、かなり近い場所に未来の記憶がいるような気がして仕方がなかった。
五十代に戻ってくると、三十代が自分にとってどんな時代だったのか、ハッキリと思い出すことができないように思えていた。
「まるで激流に飲まれたような時代」
そんな風に感じるのだった。
完全に駆け抜けた時代であり、近くに感じられるのは、意識が近かったからだというよりも、猛スピードで駆け抜けていたことで、距離的に近く感じられるだけなのかも知れない。
「俺は一体いくつの頃から、こんなに人生を駆け抜けるようになったのだろう?」
年を重ねるごとに、自分の中にある記憶装置に少しずつ蓄積されていく。記憶装置と言っても無限のものではないので、何かを覚えながら、忘れていくものも多いはずである。
子供の頃は、記憶するということを、無意識に行っていた。子供の頃の記憶力には、他の人とは大差がない。それは記憶する力が、子供の頃には本能のようなものであり、誰もが同じ力を持っている。しかし、成長するにしたがって、自分の中で記憶する力が生まれてくるようになると、無意識にその取捨選択は自分が行わなければいけなくなってしまう。そこには性格的なものが影響してきて、
「何を取り入れて、何を捨てるかによって、その人の性格が変わってくる」
と言えるのではないだろうか。
整理整頓ができる人は、うまく過去のことを整理できて、何を捨てていいのかちゃんと分かっている。しかし、頭の中を整理できない人は、捨てることが怖くなる。したがって、何が重要で何が不要なのかということよりも、時系列によって積み重ねられたものを、押し出される形で古い方から忘れてしまっている。
整理整頓ができない人ほど、その意識が強いので、時系列で古いものほど、意識してしまうことがあったりする。遠い過去の記憶ほど近くに感じられるという感覚は。この思いが深く影響しているのかも知れない。
だが、三十代の江崎は、なぜか未来のことを「記憶」しているように思っていた。
それを、
「予知能力」
と呼んでいいものなのか分からないが、未来を知っている五十代の江崎から見ると、三十代の江崎が感じている未来のことは、それほど的外れというものではなかった。
「未来を知らないはずの人間が、ここまでのことを想像できれば十分だ」
というほど感じるもので、五十代の江崎は、絶句してしまったものだ。
しかし、その時の五十代の江崎には分かっていなかったが、未来のことに思いを馳せているのは江崎だけではなかった、その時代に生きている人を注意深く見ていると、そのほとんどが、未来への思いを馳せていたのだ。しかも、未来に対しての想像たるや、三十代の江崎の比ではないと思える人は、結構たくさんいたのだった。
「未来に思いを馳せるなんて感情。自分の中からなくなってどれくらいの月日が経つのだろう?」
人生先が見えてくると、未来への思いなどなくなってしまう。想像することが恐ろしくなり、絶望感しかないことだろう。
江崎は三十歳の頃の自分が、新鮮に思えて仕方がなかった。本当の三十代の自分は、その頃から未来への希望を抱かなくなっていた。
なぜなら、
「人生半分も過ぎると、後は下り坂でしかない」
と思うようになり、未来に対して淡い希望を抱くのではなく、もっと現実的なことを思い描くようになる。
それは過去から現在に至る自分を思い起こし、そこからの延長線上として自分を見ているだけで、そこに発展性も進展もありえない。あくまでも、付加価値をつけてはいないのだ。
ということは、未来のことをまるで見てきたことのように意識しているというのは、それだけ何の変化もなく生きてきた証拠であり、
「毎日が無事に過ぎてくれればそれでいい」
というだけの生活に入ってしまった。
この二十年を、あっという間に駆け抜けてしまったと感じるのも、無理もないことなのかも知れない。
しかし、三十代の頃に自分自分で感じていた未来が、本当にそこにあるというのだろうか?
確かにその時代を生きているのは、自分と同じ世代の人間ばかりではない。未来に思いを馳せる若者もいれば、先が見えているのに、未来に目をつぶってしまっている年配の人間もいるのだ。つまりは、
「自分だけを見つめているとまったく違う世界のように感じるが、実際には、全体的なバランスは変わらない世界がそこに広がっているだけだ」
と言えるのではないだろうか。
だが、逆に
「自分というものを中心に考えると、どんなに世代の分布が同じでも、自分に対しての影響力はまったく違っている」
と言えるのではないだろうか。さらには、
「今この瞬間の一瞬前と後ろでも、まったく違った世界として切り取ることができる」
と考えることもできる。
そこから
「パラレルワールド」
という考えが生まれてくるのだが、
可能性の数だけパラレルワールドが存在するのだと考えると、一人の人間にも無数の可能性が存在する。さらにまわりの人間との関わりを考えると、天文学的な数字が存在していることになる。
そうなってくると、すべてを信じるという発想よりも、都合のいいところだけを切り取って考え合わせるという発想が必要になってくる。
どちらの発想も両極端だが、どちらにも一理あると言えなくもない。
そう考えてみると、タイムマシンのような機械を「パンドラの匣」と考えることは、たった一人の目から見た様々な世界への想像だけでも答えを見つけることができないのに、さらに広げようというのは、自殺行為とも言えるのではないだろうか。
「ひょっとすると、三十代の江崎が五十代の自分を知っているのだとすると、他の人たちも未来の自分を知っているのかも知れない」
タイムマシンで来た未来の人間と、過去の人間との間の関わりと、同じ時代に無限に広がるそこに同じ自分もいるであろうと考える「パラレルワールド」とでは、どちらの方が、自分の中で受け入れやすいと言えるだろうか。
人それぞれに違っているかも知れない。
同じ自分でもそこにいるのが、未来や過去の自分と、同じ時代でも可能性の違う自分の存在。認めたくないとすれば、同じ時代の可能性の違っている自分ではないだろうか。
「下手をすれば取って変わられる」
という怯えを感じる。
しかし、今の江崎には、パラレルワールドの自分に取って変わりたいという意識はないのだ。
「もし、取って変わった世界が、今の世界よりも悪い世界だったら、どうすればいいんだ」
という考えが先にあった。
しかし同じ取って変わりたくないという思いの中に、
「逆にまったく同じ時代であっても、そこにいる自分だけが違っている世界であれば、それこそ、自分の立ち場をどのように持って行っていいか分からない」
と感じるからだ。
自分が三十代の頃は、そんなことを考えたこともなかった。