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タイム・トラップ

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 ただ、未来の自分から今の自分を見れば、自分は過去なのだ。時代が違えば、そこに存在している自分がいるのが間違いなければ、いつ出会うか分からない。少なくとも、タイムマシンだけが存在し、過去に行けるのだとすれば、自分を陰から見ていたいと思ったとしても、出会うかも知れないと感じると、恐ろしくて行くことができない。過去の自分がどの瞬間に、どこにいるかということを、確実に掴んでいなければ、出会い頭に会ってしまうということもありうる、
 しかし、科学者の中には、
「いくらタイムマシンで過去の時代に行けるようになったとしても、過去の自分と遭遇しないように、見えない力が働いている」
 と考える人もいる。
「あまりにも都合のいい考えではないか?」
 確かに、過去の自分と出会ってしまうと何が起こるか分からない。
 いや、ひょっとすると、本当は何も起こらないのかも知れない。
「何かが起こるかも知れない」
 と思わせておいて、過去に対して、あるいは未来に対しての興味を削ごうとする考えが存在しているのかも知れない。
 それは、タイムマシンを知らない人によって左右されることではなく、未来の
――タイムマシンを知っている人たち――
 によって、左右されるのではないだろうか?
 もっと発展した考え方をするとすれば、
「タイムマシンは秘密裏に開発されていて、現代の人間が他の人にそのことを知られたくないという思いから、そういう発想を抱かせるように仕向けている」
 という考えもできないわけではないだろう。
 いろいろなことを考えていると、ふと江崎の脳裏に、
「僕が今考えていることは、本当に三十代の自分の考えなのだろうか?」
 と思うようになった。
 二十代でないことは確かだ。三十代の自分のことを分かるはずもないからだ。しかし、五十代の自分だということになると、今自分が目覚めたこの世界は、一体どこだというのだろう?
 目が覚める前に見ていた夢は、確か二十代の頃、付き合っていた慶子という女性が、自分の知っていると思っている男性に声を掛けられるシーンだったような気がする。いくら夢の中でのことだとはいえ、まるでついさっき見た光景のように感じられるのは。それだけリアルな感覚が残っているからだろうか?
 いや、リアルさはそれほど感じなかった。それよりも、自分の感情が、リアルを追い求めているような感じがして、その理由に、
「辻褄合わせ」
 があると感じるのだった。
 江崎は、今自分が目覚めた時代が、五十代であるという確信めいたものがあった。そして自分の身体は三十代の自分が知っている身体である。
「ということは、この時代には、もう一人の自分、つまり五十代の自分がいるということになるのか?」
 という考えが頭に浮かんだ。
 それにしても五十代など、想像もつかない時代だった。
 世の中がどうなっているのかも分からないし、当然時代に順応した自分が、この時代にいることになる。
「この時代のことを思い浮かべるのと、五十代になった自分を想像するのとでは、どっちが困難なことだろう?」
 普通であれば、自分のことの方が想像するにはた易いことのように思えるが、江崎は決してそうは思えなかった。三十代の今から、五十代までの間に、何もないと言い切れないと感じていたからだ。
 そして何よりも、
「どうして、五十代なんだ?」
 という発想である。
 目が覚めて感じる時代が、現実の時代と違っているのだとすれば、いつでもいいはずだ。特に未来よりも過去のことの方を強く思っている江崎なので、過去を感じるのが本当だと思っていた。
 それなのに、なぜ未来なのか、敢えて未来に思いを馳せるとするのでああれば、そこには何らかの理由が存在しなければ、自分で納得することはできない。
 江崎にとって、まだ見ぬこの時代。夢で見たような気がしていたが、果たして夢で見た世界とどのように違うのか、興味深かった。
 なぜなら江崎は、
「夢に見たこの時代、今実際に見る時代と、寸分狂わないような気がして仕方がない」
 と感じていた。
 どうして、どこにこのような根拠があるのか、自分でも分からないが。信憑性はかなり高いような気がしてならなかった。それは、自分じゃない誰かが見てきたものを、まるで自分が見てきたように思い、想像を巡らせているように思うからだった。
 完全に目が覚めると、三十代を感じていた自分がまるで別人であったかのように、子重大としての自分が、何事もなかったように布団から身体を起こした。
 これが本当なのである。ここに三十代の自分がいるというのは錯覚であり、三十代の自分は、夢の中でだけ存在しているものだった。
「俺がいるこの世界は、昨日までの自分が知っている世界であり、夢がいかに「リアルであったとしても、それはしょせん夢であり幻に過ぎないんだ」
 と感じていた。
 それにしてもリアルだった。
 確かに、かなり過去のことの方が、直近の過去よりも身近に感じられることが往々にしてあるというものだ。それはひょっとすると、昨日にも同じことを感じ、その時にかなり遠い過去を思い出していて、その時は、さほど遠い過去のことを覚えているわけはないと思っていたのだろう。
 覚えていないということが当然であるという意識は、自分の気持ちを気楽にさせた。
「覚えていなくて当たり前だ」
 と思うと、今度は覚えていないのが、なぜなのかを考えるのだろう。そしてその時に何らかの答えが頭の中に浮かび、無意識に記憶を呼び起こす「フラグ」を押してしまい、
「気が付けば思い出していた」
 という感覚を覚えさせることがある。翌日になって思い出すのは、過去のことを思い出すためには二段階必要で、そのための二段階目として翌日が用意されている。当日と翌日、どちらかメインなのかを考えると、当日と翌日という考えではなく、前日と当日というのが正しい表現なのかも知れない。
 過去のことを夢に見たり、思い出したりする時は、その時がメインなのであり、前の日が前日として考えるだろう。
 遠い過去が二十年近くも前のことであり、三十代の自分を思い起こすと、
「三十代の頃には、五十代がかなり遠くに感じられたが、五十代になって見なおすと、そこには近くに感じることのできる記憶を持っているののかも知れない」
 そして、三十代から見た時の五十代というのは、まだ自分が経験したことのないものであるので、
「まるで他人事」
 のように感じられてしまう。それは自分のことだけではなく、世界に対しても同じだ。勝手な想像をしては楽しんでみたりしているのは、他人事だと思う気持ちがあるからだ。それとも現実の世界のことだけで精一杯で、未来のことを考えること自体、まるで罪悪でもあるかのように感じていた。いわゆる「禁じ手」のようなものである。
 そのことをいまさらのように感じるのは、
「自分の中に三十代の自分がいるのではないか?」
 と感じるからだった。
 夢の中では確かに自分は三十代を演じていた。自分でなければ知らないことを知っているからだったが、逆に夢の中にいたもう一人の自分、つまり三十代の自分は、五十代になっている自分ですら知らないことを、知っているような気がして仕方がなかった
作品名:タイム・トラップ 作家名:森本晃次