タイム・トラップ
その思いは貫かれ、今まで逃げの性格だった慶子を逃げることをしない性格に変える契機になった。江崎にとっては、何とも皮肉なことだったに違いない。
後ろを振り向いた慶子は、最初、何とも不思議な表情をした。苦虫を噛み潰したような何とも言えない顔だった。
しかし、すぐに安心した表情になり、現れた相手の顔を見上げていた。そこには相手を慕う女性の表情があり、江崎にとっては初めて慶子に感じた表情だった。
自分の父親と同じくらいのその男性に慶子は、
「おじさん」
と言っていた。
本当に血の繋がった叔父なのか、それとも父親くらいの年上に対して一般的に呼ぶ「おじさん」なのか、俄かには計り知れるものではなかった。
だが、慶子が慕う相手であることには間違いがないようで、すでに相手がどんな立場であるかどうかよりも、江崎にとって自分とはすでに修復できない距離にいることは見て取れた。
江崎は、「おじさん」と呼ばれたその男性の表情を見ていると、暖かさに溢れているのを感じた。しかし、どこか他人ではないような思いがあったが、その男性の顔に、見覚えがあったと言っても過言ではない。
明らかに自分にはできない笑顔であり、自分が知っている同世代の男性には無理であることも分かった。
――やはり年齢を重ねなければ培うことのできない表情というものは、存在するんだ――
と、感じてはいたが、実際に目の前で見たことはなかっただけに、新鮮な気持ちすらあった。
それでも、まだ心のどこかに慶子に対して未練がましいものがあったのだろう。大学時代のように自然消滅が一番気が楽だというわけにはいかない。別れるのであれば、その理由をしっかりとさせなければいけない年齢になっていた。それがお互いに大人になってkらの恋愛であり、けじめというのが連内には不可欠であるということを、いまさらながらに思い知らされたのだ。
相手が現れて、その姿を見るところまでは想像できていた江崎だったが、相手の顔を見ると、今度はすぐにその場から立ち去ることができなくなった。
慶子に未練が残っていることを再認識したからではない。その場を立ち去れないのは、慶子に対しての未練からではなかった。その思いが強くなったのは、慶子に対してというよりも、むしろ、後から現れた男性を見てからのことだった。
「どこかで見たことがあるんだよな」
最初は、
「自分が年を取れば、こんな感じの男性になるんじゃないか」
と感じたのだが、それにしては、その男性の雰囲気に対して、もっとリアルな感覚があった。
それは、その人と正面から向き合ったことがあって、話をしたことがある人間に対してでないと感じることのできないリアルな感覚である。
こちらからアクションを起こせば、それに対して返してくるアクションを想像することができる。逆に相手のアクションに対して、自分ならどのようなアクションを返すかということまで、分かるような気がするのだった。
この男性には自分の親しい人の中に、同じようなシチュエーションを感じることができた。しかも、ごく最近も感じた相手だが、すぐにそれが誰かを感じることができないのは、表に出ている雰囲気が、あまりにも似ていないからだろう。
それは外観の容姿という意味でも言えることだが、表向きと内面とでは違うということだ。つまりは、本音と建て前を見比べた時、建て前は似ても似つかないところにあるが、本音を探れば、間違いなくその人物だと思える人だった。
その人が誰であるかということは、慶子がその人の名前を呼んだ時に確信した。
しかし、その名前を聞いた瞬間、
「やはり」
と感じたが、
やはりと感じたその瞬間、さっきまで感じていたリアルな感覚が急にリアルではなくなってしまった。その人物が、目の前の人物とあまりにも年齢的に開きがあるからで、やはり目の前の年配の男性の中には、
――年を重ねなければ感じることのできないモノ――
があったのだ。
もちろん、江崎が想像していて、慶子の口から出てきたその名前の人物からは、
――重ねた年齢が醸し出すモノ――
が、出ているわけではない。
また、その人物と慶子が知り合いだというわけはないと思っているので、慶子には、江崎が感じていることを慶子も感じているはずはないと思っている。
しかし、慶子の彼に対しての言葉の中に、
「あなたと一緒にいると、今後知り合う誰かに、同じ感覚を感じるような気がしてならないのよ」
と言って、はにかんで見せた。
それを見た男性は、
「その感覚は嘘ではないかも知れないね。ただ、その男性がどんな人なのか分からないので、僕は嫉妬するかも知れないよ」
というと、慶子の方は、
「何言ってるのよ。あなたが嫉妬なんてするはずないわよ「」
「どうしてだい? 僕だって一人の男性だよ」
「だって、あなたは私のことを愛しているとは思っていないでしょう? 私には分かるもの」
「どうして分かるんだい?」
「私があなたに恋愛感情を抱いていないからだということかしら? あなたもそのことは最初から分かっていたはずですよね?」
「ああ、そうだったね。恋愛感情とは無縁の二人だったわね。でも、私はあなたと知り合ってから、恋愛感情というものがどういうものなのか、分からなくなったのよ」
「新しく何かを作ったり、感じようとするには、一度築いたものをぶち壊す必要があることもあるんだよ。きっと君の中で恋愛感情が分からなくなったというのは、新しい感覚を
形成するために通らなければいけない道のようなものなのかも知れないね」
「私は、すべてをぶち壊している感覚はないんだけど、ひょっとしたら、そうなのかも知れないわ」
「それは今は分からない。新しい感覚があなたの中で生まれて、その時に感じたものが真実なんだよ。それは他の人には分からないものであり、あなたの中で新しい命を育むような感覚になるのかも知れないね。そう、乳歯が抜けて、その後から永久歯が生えてくるような感覚に似ているのかも知れないね」
その男性は面白い比喩をしていた。しかし、その比喩は的確にその場の雰囲気を捉えている。その感覚は江崎が感じている自分が知っている人が言いそうな話ではあった。話し方には違いがあっても、基本的な考え方や言い方には、完全にダブって見えるものがあった。そこに江崎は、
――今の慶子は、運命のようなものを感じているに違いない――
と感じるのだった。
見ている限り二人の間に恋愛感情は感じない。それにこれだけ年齢差があるのに、単純に年齢を重ねているだけの先輩という雰囲気よりも、まさに人生の先輩ともいうべき感覚に、見ているだけでは二人の本当の関係は分かりかねる。
「対等に話しているように見えるけど、お互いに尊重しあうところはしっかりと捉えている」
と感じさせた。
「あんな人が知り合いにいたんじゃ、同い年や少しくらいの年上では、とても太刀打ちできるはずもないか」
半ば諦め気味に見ていたが、どうしても男の顔を見ていると、知っている人間のイメージが払しょくできない。
「あっ、分かった」