タイム・トラップ
という思いが、無意識に自分の意識を動かしたのか、その二つを結びつけることはなかった。
後から考えれば。その時一番幸せだったことが、不安と直結しているということに気づかないはずはない。それを考えなかったのは、恐怖の二文字からなのか、考えることでせっかくうまく行っていることが崩れてしまうことを危惧したからなのか、どちらにしても、「怖い」
という二文字が、キーワードになっていたに違いない。
「慶子と、ずっと一緒にいたい」
という思いの裏には
「慶子と別れることにでもなったらどうしよう」
という、背中合わせの感情がいつもなら渦巻いていたはずだ。
「好事魔多し」
ということわざにもあるが、いいことが自分の身に降りかかってくると、その裏で不安なことが渦巻いているのは仕方がないと思ってきた。だからこそ有頂天になったとしても、精神的な暴走に繋がらず、気持ちを整理できていた。つまりは、
「機械が熱くなりすぎないようにするための冷却装置のようなものだ」
とも言える。
江崎の中で、その時の声の主が本当に、
「冷却装置」
というだけの存在だったのかどうか分からない。しかし、慶子と別れるきっかけになったのは疑いようのない事実であろう。そのことを本当に思い知るのは、気も遠くなるほどの未来のことだが、その時のことも、そして未来になってからのことも、それぞれで同じ思いを感じるようになっていたに違いない。
年配のその人の声には、最初江崎も誰の声なのか分からなかった。実際には今その声を聴いて驚いた表情をしている慶子とは、驚き方が違っていて、江崎がその声の正体を知るまでに少し時間がかかったことに比べ、慶子はその声の正体にすぐに気が付いたようだ。
しかし、そのことが却って慶子に恐怖心を与え、
「そんなバカな」
と、すぐに思わせた。
それでも、驚きがどんなに大きかったとしても、江崎のそれに比べれば小さかったのは間違いない。まさか、江崎がその声を最初に聞いたなど、想像もつかないだろう。
しかし、江崎と慶子は、それぞれ大きな勘違いをしていた。そのことに最初に気が付いたのが慶子だった。その考えがあったからこそ、慶子は、
「私は、江崎さんと別れることにして正解だったんだわ」
と感じたのだ。
何か江崎には途中から、おかしなものを感じていた。
それは江崎の性格というよりも、江崎自身のことだった。
「まるで別人のような気がする」
という思いが時々、慶子を襲っていた。
そのたびに、
「そんなことあるはずないじゃない。私の勘違いだわ」
と自分の考えを打ち消してきた。
しかし、あまり頻繁に打ち消していると、今度は自分を打ち消しているようで、不思議な感覚に陥ってしまう。何が正しくて何が間違いなのか分からなくなってしまうのだ。
その時に思い立ったのが、
「本当に私はこの人を愛しているのだろうか?」
という思いだった。
本当に愛しているわけでもない人を愛していると思い込み、自分がおかしくなっていくのを黙ってみているというのは、あまりにもお人よし過ぎる。自分の人生を好きでもない相手に壊されてしまうことを分かっていて、黙って見ているなど、愚の骨頂というものである。
「そんなこと許されるはずはないわ」
と、慶子は感じた。
それが、慶子が江崎と別れようと思った理由の一つである。他にも理由はあったのだが、ハッキリとした理由の一番大きなものは、この感覚だった。
「どうして別れなければいけないんだ_? ハッキリとした理由を聞かせてほしい」
という江崎の言い分ももっともだったが、慶子としては、こんな漠然とした相手に信じてもらえないようなことを口にできるはずもなかった。
なまじ口にしたとしても、
「なんでそんなことを言うんだよ。そんなの理由にならないよ」
と、罵られ、余計に相手の感情を逆撫ですることになるに違いない。
そんなことになってしまうと、別れというだけでも辛いことなのに、相手から謂れのない疑念を抱かれたまま別れることは忍びなかった。
人によっては、
――早急に別れるためには、どんな手を使ってでも構わない――
と思い、おかしいと思っていることでも、相手に感情をぶつけ、その迫力で、相手に自分に対しての思いを、完全に消沈させようと思う人もいるだろう。
――いや、そんな人の方が多いのかも知れない――
と慶子は感じていた。それができないというのは、
――自分が嫌われたくない――
という、「逃げ」の感情が働いているからではないかと思う。
慶子は自分があまり強い人間ではないと思っている。思っているからこそ、このことを江崎には話さなかった。そして、そのせいで、江崎の中に、
――まだまだ説得の余地はある――
という思いを抱かせ、慶子は自分も含めて、まわりに中途半端な空気を残してしまうことになったのだ。
これは、別れる原因になったことがどっちにあったのかということが、
――どちらが悪い――
という疑問に対しての答えではなくなってしまった。中途半端にしてしまった時点で、悪いのは慶子だということが確定してしまったのだ。
もちろん、慶子はそのことは分かっていない。あくまでも、悪いのは江崎だと思っている。
「彼の行っている行為は、ストーカー行為だわ」
まだ、その頃はストーカーという概念はなく、もちろん、犯罪というわけではない。逆に言えば、社会問題になっているわけではないので、そこまで覚える時代でもなかったのだ。
しかし、慶子はいずれはこのことが犯罪になるのを分かっていた。なぜ分かっているのかは、自分でも分からない。
「まるで未来を見てきたようだわ」
と感じたが、そんなことは口には出せない。そんなことを言えば、まわりから、
「何バカなことを言ってるの」
と一蹴されるだけで終わってしまうからだ。
下手をすれば友人を失ってしまう。それも嫌だった。江崎と別れようと思ったのも、自分の今の思いを、江崎になら看過されてしまいそうな予感があったからだ。
だが、慶子はさっき声を掛けてきた男性に対し、
「そんなバカな」
と思い、すぐに振り返ることができなかった。
実はそのことを後悔していた。それは、その時に感じた疑問を、すぐに振り向かなかったことで、永遠に解決するすべを失ってしまったからだった。
「まさか、今の声」
その声に心当たりがあったからこそ、
「そんなバカな」
と感じたのだ。
その声の正体を知ることは、本当にそんなバカなことなのか、それとも自分の思い過ごしなのか、少しの躊躇が自分の今後を左右する決断をするための重要な手がかりだったはずなのに、それをみすみす見逃してしまったのだ。
「私が下す結論は、信憑性がない」
と感じた。
しかし、逆にそのことが慶子に開き直りを与えた。
「それなら、いったん下した自分の意志は、初志貫徹。つまりは、どんなことがあっても、貫かなければいけないわ」
と思い見つけた結論が、
――江崎とはどんなことがあっても、復縁はしない――
という結論だった。