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短編集10(過去作品)

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 季節の変わり目でもあり、秋から冬へとすっかり街の様子も様変わりしてきた。夜ともなると風の冷たさが身に沁み始め、頬を掠める突風が痛いくらいだ。
 汗を拭きながら、ビールをジョッキーで一気に飲み干し、喉を鳴らしていたのが、ついこの間までのことだった。季節の変わり目というのは時間が立つのも早いもので、気が付けば鍋物に日本酒というのも、考えてみれば不思議なものだった。
「今日はいい日本酒が入ったよ」
 そう言ってマスターが出してきたのは米どころ新潟の酒だった。
 店内の壁には鍋の種類を書いた短冊が所狭しと貼られていて、煮込みの湯気が立ちこむ中、ぐるりと見回してみる。
 その日は珍しく他に客はおらず、貸切状態に満足していた。今まで広く感じたことのない店内を始めて広く使える。どういうわけか、その日は後から客がやってくる気分にもならないのだ。
 注文した鴨鍋に舌鼓を打ちながら呑む日本酒は最高で、さすが米どころ新潟を思い起こさせる。自然と酒の量が増えていくのも当然かも知れないが、後から酔いが一気に回ってくる私としては、それなりにセーブして呑んでいるつもりだった。マスターとのとりとめのない世間話から、まるで雪国で飲んでいるかのような錯覚を覚えた私は、いつの間にやら抑えが効かなくなっていたようだ。
「ん? 白い閃光?」
 黄色身を帯びた裸電球が、いくつか点いている風流な店だった。いつもは酔いが深まるにつれ、さらに黄色が深まり、明るさの感覚が失われるような意識があったが、今日は違った。
 失われるというよりも、限りなく白い閃光は、色という概念を超越しているのだ。
 しかし次第に目が慣れてくると、そこに黒い影が現れるのに気が付いた。しかもそれは少しずつ大きくなっていき、私の好奇心を昂らせる。
 温泉を思い出した私には、白い閃光が光だけではなく、もやのようなものにも見えてきたのだ。
 露わになった女性の肢体、シルエットとなって浮かび上がったその姿は、くっきりと窪んだ腰、肩までさらりと伸びた髪の毛が印象的だった。
 顔がはっきり見えるわけではない。しかし想像を膨らませるには十分で、その方が却って印象に残るというものだ。
「こっちへいらっしゃい」
 と言わんばかりに手招きをするかのように見える姿に、果たして理性を抑えられる人がいるのだろうか? 少なくとも私には無理だ。そう思い前進を試みる。
 風もないのにふんわりと揺れる髪の毛を見ながら、一歩一歩進んでいく。視線が一点を捉えながら進んでいくという経験があまりないためか、進んでいることがまるで嘘のように感じる。確かに足は動いている。が、近づけば近づくほど目標が小さく感じられるのは錯覚であろうか?
 私は後ろを振り向いた。そこにはさっきまで座っていた椅子のみがあり、確かにここまで進んできたことを証明している。
 進めば進むほど目的物との距離が広がっているのは、紛れもない事実のようだ。
 ひょっとして、目的物に永遠に近づけないことを潜在意識として自覚しているからなのだろうか?
 そう感じた私は、それが夢であることを直感した。
 夢、空を飛ぶ夢を見ることがあるが、「人間は自力で空を飛ぶことはできない」という意識が働いているので、たとえ飛べたとしても普通の人の腰以上の高さを自由に飛ぶことはできない。
 そういう時、私はそれが夢であることに気付くのだが、その日もそうであった。しかも夢だと自覚した時点で夢が終わり、「やっぱり」と気付くのだ。そして空を飛ぼうとしたところしか覚えておらず、そこだけは頭の中のいつでも引き出せる記憶として残っている。
 右の頬に張りのある痛みを感じ、目の前にはビールのジョッキーが置かれていた。頬が感じたその痛みは、木でできたカウンターのテーブルに密着させたまま、崩れるように眠り込んでいたのが原因だった。まだすっきりとしない意識の中ではあったが、さっきのが本当に夢だったことをしっかりと認識していた。
「また、いつもの夢だ」
 目が覚めた私が認識したことのもう一つであった。
「大丈夫かい?」
 耳の奥にやっと届いたかのように聞こえるマスターの声で、自分がどれほどの酔いの中にいるのか自覚できた。今までにないほど酔っ払っているのは間違いないようだが、それにしてもそれほどまでに酔わなければならない理由が、果たして今日の私にあったかどうか、はなはだ疑問である。
 実際、この店で酔いつぶれて眠ってしまうほどのことは今までになかったことだ。
「今日の山ちゃんはどうかしてるね」
 そう言って話しかけるマスターであるが、どういう意味だろう? いつもそれほど呑まない私が呑みすぎたということだろうか? それとも、たかがこれほどの量で酔いつぶれてしまうなんて、体調でも悪いんじゃないかかと思っているからであろうか? おぼろげな意識の中でそれを感じていた。
 目が覚める時というのは得てして眠ってしまった時の記憶があるもので、それは酔いつぶれた時でも同じである。
 例えば休みの日に昼寝をする時でも、起きた時の目覚めは昼寝による目覚めだと認識していて、たいした驚きはないのだ。
 しかし、さっきと同様の夢を見続けている最近は、なぜかその感覚が薄れている。実際カウンターで目を覚ました時、炉辺焼屋のカウンターで酔いつぶれているなどという意識はだいぶ後になって分かるものだ。
 では一体どこにいたという記憶があったのだろうか? 私はその時何とか思い出そうと努力をしていた……。
「本当に大丈夫かい?」
「ええ、まあ何とか」
 とは答えたものの、心配そうな顔のマスターを見ていると、自分まで不安になってくる。
「やっぱり今日はそろそろ帰ります」
 時計を見ると午後十一時を回っていた。思ったより時間が過ぎていたのである。
 表に出て深呼吸をすると少し気分が楽になった気がして、いつものように天体を眺めながらゆっくりと歩き始めた。
「えっ?」
 一気に酔いが覚めた気がした。楽になる覚め方ならいいのだが、どうやらそうはうまくはいかないようである。見上げた空に黄色く浮かんでいるその月は、先ほど見た攻撃的な弓なりの月ではなく、お盆のように丸い手を伸ばせば届きそうな大きな満月であった。

 ぼやけた頭で見つめる天井は思ったより遠くに感じられた。
 目が覚めた瞬間そこがどこであるかという認識はあったはずだ。しかし信じがたいような思いが頭を巡り、否定しようとしている自分がいることにも気付く。
「どうしたの? 今の自分が信じられない?」 
 少し気だるそうでハスキーな声が、さっきまで繰り広げられた濡れ場を思い出させ、さらに興奮を覚えた。それにしても私の考えていることがこの女には分かるのだ。気持ち悪い気もしたが、たった今一つになった満足感を味わったばかりなので、それも悪い気はしない。
「確かに……」
 それ以上どう回答すればいいのだろう? 心を見透かされていると思う相手に何を言っても同じ気がし、言葉が続かない。いや、そもそも事を終えたベッドの中の二人の間で言葉など無意味というものである。とろけるような肌は健在で、未だに熱冷めやらぬ身体からは、絶えずオーラが発せられているようだ。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次