短編集10(過去作品)
私の腕に身体ごと纏わりついている彼女だったが、私の意識がしっかりしてくるにしたがってさらに密着度を強めている。燃えように熱い身体の彼女を感じている私だったが、そこに余計な感覚は一切なかった。自分の身体の一部でもあるかのごとく違和感なく纏わりついている彼女の身体に、まるで自分の血が流れ込んでいるようである。
「もう一度」
そう言って自分から貪りついてくる彼女に身体を預けた私は、さらに夢見心地に陥る。しかし先ほどと比べ少し頭が冷静なのも事実で、彼女のあせりのようなものすら感じていた。途中からは私が主導であった先ほどと違い、今度は完全に彼女に任せきりになった私は、押し寄せる興奮という波を静かに味わっていた。
「俺って、こんなに冷静になれる人間だったのだろうか?」
小さな声で呟いたが、どうやら彼女には聞こえていないようだった。しかし考えれば考えるほど冷静になっていく自分に驚きを感じながら押し寄せる波を素直に受け入れることに少なからず感動していた。
冷静な頭は、なぜか不安をも呼び起こすようで、快感に身体を委ねながら頭の中で言い知れぬ不安感が去来していた。
それは彼女に関することでも、この場の雰囲気でもない。何か大きなものを忘れていることへの不安で、それが何なのかを考えるまで、さすがに今の快感に打ち勝つことはできなかった。
あまりにも小さな声だったので、聞き逃しそうになったが、
「あなたって、何となく薄い気がするわ」
確かに彼女はそう言った。
思わず硬直してしまった私だったが、彼女は冷静な目で見つめている。間違いなく彼女の瞳には、目をカッと見開き、驚愕の表情をしている私が写っているに違いない。
それでもなるべく素知らぬふりをし続けたが、いかにも不自然なのは分かりきったことで、自分でも今の表情が想像の域を超えていることを認識していた。
「薄いって?」
このまま聞かなかったことにしようかとも考えたが、黙殺するにはあまりにも尾を引きそうな気がした。この屋敷で女性と身体を重ねるということまでは、今から考えると想像の域にあった。運命という言葉が頭をちらつき、以前に夢で見たような気がしてくるのも無理のないことだった。
薄いというのはどういうことか、自分なりに考えてみた。
もし彼女と出会ったことが運命であるならば、運命が薄い人……、つまり先の見えた人生、私に未来はないということだろうか?
いや、そんな深刻なことではなく私の性格が単純なもので、懐が浅い人物だという考え方もできる。
どちらにしてもあまりいいイメージではない。
「私はずっとあなたを待ってたわ」
絶えず私の身体に触れる手は小刻みに震えていて、本能の赴くままに快感を貪っている。それには波があり、定期的に襲ってくるゾクッとするような快感は恍惚へと変わる。
「それはうれしい限りだね」
私も彼女の出現を待ちわびていたのかも知れない。快感に身体を震わせながら、最初は味わったこともないと思っていたのだが、襲ってくる波に身を任せていると、懐かしさとともに安心感を覚える。
私の冷静な返答に彼女はどう感じたのだろう。心の中で待ちわびていた人の出現、少なくとも心ときめいたはずである。だがそのわりに彼女の顔に笑顔はあまり感じられない。確かに私を受け入れた身体は正直だったが、それに表情が伴っていたかと言われれば疑問が残る。
どこかで会ったことがあるような気がすると思ったのは、そこから出た感覚ではないだろうか。露骨な表情の変化があるわけではなく、隠そうとしても内に秘めた想いが滲み出て来るところに私は懐かしさを感じていた。しかしそれは私の記憶の引き出しから取り出せるものではなく、はっきりと人物を特定するに至らないのがじれったい。
「不思議でしょう? なぜここにいるのかが」
彼女のその問いに対して、無言で頷くしかなかった。
私の頷いた姿を見て何となく納得しているかに見えた彼女が恨めしく感じ、この場の事情を知らない私を嘲笑っているかのようにさえ思えた。
「ごめんなさい、あなたは何も分かっていないものね。でも、これからは私たちずっと一緒なのよ。やっとずっと一緒にいられると思うと私はそれだけで嬉しいの。本当にごめんなさい……」
最後の彼女の一言、それがとても気になった。確かに彼女は喜んでいるようだが、なぜゆえ彼女は私に詫びるのだろう。
「あなたは一体……」
心の奥に溜めていた思いを搾り出すように訊ねた。彼女が答えてくれることを一応期待はしたが、それが無駄なことであることは分かっている。
しばしの沈黙の後、私は仰向けになった状態で天井を見つめた。真っ白い天井を見つめているとまたしても身体の血が逆流しているような感覚に陥ってきたが、先ほどまでの性欲に満ちた感覚とは違っていた。
掻き毟りたくなるほど胸がムズムズしてくる。喉がカラカラに渇いてきて、額から汗が滲み出る。
「何かを家に忘れてきたような気がする」
私のその言葉に、初めて彼女が表情を変えた。まゆや口元が微妙に痙攣し、潤んだその眼差しは明らかに怯えを含んでいる。
私を抱く手に力が入る。ベッドからあくまでも出さないという気負いが感じられ、驚いた私は彼女の眼差しを穴が開くほど見つめた。
「何をそんなに怯えているんだい?」
「私をまた一人になさるんですか?」
「いや、少し気がかりなことがあって、家に戻らなければならない」
その言葉を最後に少し沈黙が続いた。私の胸に顔を埋め、何も語ろうとはしない彼女は小刻みに震えている。どうやら泣いているようだ。
「大丈夫だよ、すぐに戻る」
今日はそのまま家に帰るつもりだったが、今の彼女を見ていると、またしてもここに戻ってこなければならないような気がした。すぐに戻ると言った言葉は本心から出たことだった。
私のその言葉を信じていないのか、私の顔を見上げた表情には切なさや堪らなさが滲み出ていて、哀願する気持ちが手に取るように分かった。
しかし帰らなければならないという私が感じた思いは、いくら彼女が哀願の表情を示そうとも、揺るぐものではなかった。どこかで毅然とした態度を示さなければならないと思う。
意を決した私は強く抱き寄せる彼女以上に力を入れ、勢いよく振り払った。そこに一切の情や感情を含まないことが前提である。
それから先、どうやって屋敷の外に出たかはっきりとは記憶していない。気が付けば、最初見覚えのある住宅地だと思い立ち止まった場所までやって来ていた。
先ほどのは夢だったのでは?
少しそんな思いが頭を掠めた。
しかし身体に残った艶めかしい感触、目を瞑れば漂ってくる女性の甘い香り、紛れもなく今感じていることである。
来た道をゆっくりと歩み始めた。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、寒さが身体に沁みる。
道にはもやが掛かっていて、少し強い風に煽られ靡いているのが見えるが、街灯に照らされ、きれいな感じさえする。
もやが掛かっているせいであろうか、革靴の乾いた音が周囲に響き、エコーが掛かったように和音を奏でている。犬の遠吠えとともに深夜の静寂を打ち破り、気持ち悪さを感じていた。
「えっ?」
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次