短編集10(過去作品)
「あなたとは、こうなる運命のようなものを感じたの」
普通であれば、大袈裟な言い方に聞こえるかも知れない。しかし、ベッドの中は少々のことくらい大袈裟に感じない雰囲気がある。甘い雰囲気とはまた別に、少し危険な酸っぱい香りに誘われて、感覚が麻痺しているようだ。
しかし、最初に優梨子が私を見つめていた視線、母親の面影を追い続けていたのが最大の理由であることは分かっていた。
「君が最初に僕をじっと見詰めていたのを感じたからかな?」
「ええ、あなたが気が付いていたことも知っていたわ」
「でも僕と視線を合わせようとはしなかったね」
「どうしてかしら? あなたと視線を合わせることを拒んでいたのは事実ね」
「こうなることが怖かった?」
「そうかも知れないわ。でも、今はそんな怖さはないの」
私にしがみついてくる。
優梨子の行動に大胆さを感じたのは、どうやら私の勘違いだったのかも知れない。彼女はいつも何かに怯え、誰かを求めていた。
しかしそれは得てして“気持ち”と“想い”の矛盾する相容れない感情の交錯ではないだろうか?
優梨子にとって、本当に私が必要な人間であるかなど、誰にも分からない。それを一番不安に思っているのは優梨子自身であり、それが視線を合わせようとしなかった優梨子のささやかな運命への抵抗だったようだ。
電車の中で、それまでこちらに視線を向けなかった優梨子が私を見つめている。驚いた私は一瞬視線を逸らそうとしたが、それを優梨子の目は許さなかった。初めて視線が合った瞬間である。
それから二人が愛し合うようになるまでに、時間など必要なかった。もちろん言葉など関係ない。見つめていれば相手が何を言いたいか、すぐに分かった。
「ずっと以前から知り合いだったみたい」
「ええ、私も……」
これが最初の会話だった。
家族のある優梨子が私に心を開いた一番の理由がそこにあったのかも知れない。
もちろん、私も家族がある人だと分かっているのに、こんな気持ちになった理由がそこにあったのだから、心同様に身体を求めるまで自然で、違和感などなかった。
――お互いを求め合う――
そのことに運命を感じたのだ。
今から思えば、時々感じた風の囁き、それは彼女の出現を予感させるものだったのだ。
実は優梨子自身にも同じような風の囁きがあり、私と同じように、最初ははっきりと聞こえなかったらしい。ただ同じ時期に目の前に現れた私に運命的なものを感じたのは事実らしく、それが囁きの正体であると薄々感じながら私を直視していたのだ。
だが、そのうち私が見つめ返すようになり怖くなったのか、視線を合わさなくなった。それから、今まで一回聞けばしばらくはなかったはずの風の囁きが、頻繁に起こるようになったらしい。
約一ヶ月もの間に、頻繁に続く囁きの内容を聞こうと一生懸命になったが、結局内容は分からず仕舞い。優梨子自身の「目からうろこが落ちた」のか、自分の気持ちに正直になることが一番と感じたのだった。
優梨子にアバンチュールなどという言葉は似合わない。
実際今までに不倫はもちろんのこと、結婚前でも絶えず交際相手は一人だけで、他の人のことなど考えられないというタイプの女性だったようだ。
「優梨子、君が聞いた『風の囁き』とは、どんな声だったんだい?」
「男性の声だったわ。どこかで聞いたことはあるんだけど、どうしても思い出せない声なの」
「僕の場合は女性だったんだ。しかも君と同じように、どこかで聞いた声には違いないんだけど、やっぱり誰だったか思い出せない」
「歳は私と同じくらいの人の声だと思うのよね。でもたまにまるで戒めのような感じがした時だけ、中年男性に叱られているような気になるの」
私が声の主に母親のイメージを感じたのと同じようなことであろうか。
「まるでお父さんに叱られているような?」
一瞬、優梨子の表情が曇った。ひょっとして触れてはならない話題に触れてしまったのかとバツの悪さを感じ、思わす苦笑いが浮かんだ。その表情の意味が優梨子にも分かったのか、なるべく平静を装っていた。
「ええ、そうなの。でも私はあまり父親に関してはいい思い出がないわ」
「優しくなかったの?」
「そういうわけじゃなかったけど、あまり話をしたことがなかったわね。どっちかというと放ったらかされていたってイメージの方が強いくらいだったから」
一瞬の間があって優梨子は続ける。
「あなたと話していると落ち着くわ。何か同じものを抱えているような気がするの」
私は別に何かを抱えているという覚えはなかったが、優梨子の話を聞いていて母親を思い出していた。そういえば私も母親から放っておかれたというイメージが強い。というよりも敢えて避けられていたといった方がいいかも知れない。
優梨子の表情を見て、彼女もまた父親から避けられていたのではないかという思いが頭をよぎった。
子供の頃、浜辺で見たおねえさんの表情が浮かんでくる。
優梨子が父親の話をしてくれた時に浮かべた表情、それは子供心に感じた「微妙に見せた暗さ」を思い出した。いつも明るい表情で私と弟を迎えてくれたおねえさんが本当に時折見せる表情、今となって強烈に思い出すのはその表情の方だった。
本当に「風の囁き」は聞く者にとって都合のいいことを与えてくれているのだろうか?
大学時代の友人は確かにそう言っていた。
しかし、優梨子と知り合ってからしばらくして私の元にやってきた訃報を聞いて、私は愕然となった。
それは都合のいい「風の囁き」を信じていた友人のもので、彼は就職してからも「風の囁き」が聞こえると言っていた。風が「囁いて」くれる限り、そちらへ進むと豪語していたことが、今もなお耳の奥に残っている。
――彼は最後まで「風の囁き」を信じていたんだろう――
私は複雑な気分になってしまった。
信仰者のごとく信じていた男が死んでしまった。死んでいった人に今さら何も聞けないのではっきりしたことは分からないが、もし「風の囁き」を信じて死んでいったのだと考えると、少し気になってしまう。
今までならそんなことはなかっただろう。
しかし、今私は「風の囁き」の元、優梨子と知り合うことができたのだ。これは私にとって今まで何度となく頭に描いてきたとおりの幸せであり、ずっと「風の囁き」のおかげだと思ってきたことだ。
「風の囁き」自体に私の中で不信感を抱いてしまったら、今の幸せを打ち消すことになってしまう。しかも幸せであるがゆえに、その裏に潜む不安感というものが、はっきりと意識するところとなっている。ゲンすら担ぎたくなるような精神状態に、少しでもほころびが現れようものなら、それは取り越し苦労と言われようとも、簡単に拭い去れるものではない。
葬儀に参列した時、小耳に挟んだことには、やはり彼がいまだに「風の囁き」を信じていたということだった。
そんなことを知る由もない人たちの中には、好き勝手いうものもいる。
「あの人、いつも変だったわね」
「ええ、時々、何か考えてるように真面目な顔してじっと立ち止まっていることもあったわね。何していたのかしら?」
私は本能的に女性が話しているところを探して聞き耳を立てた。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次