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短編集10(過去作品)

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 今から思えば、一度も口を利かずに卒業したことが唯一の心残りとして、私の中に残ったことが残念だ。
 もし話をしていたらどんな会話になっていただろう?
 甘い声だけが頭に浮かんでくるが、時たま彼女の怒ったような声を聞いたことを思い出す。あまりにも甘い声ばかりしか聞いたことなかったので、逆に怒った声を聞いた時、思わず金縛りに遭ったのではないかと思えるほど、ドキリとした記憶があるのだ。
 確かに頭の中では甘い会話を思い浮かべることが多いのだが、得てしてそういう時に限って、彼女を怒らせる自分を想像し、自分に金縛りを与えるような結果になることがある。
 身体から流れ出す汗、焦りからしどろもどろになり会話どころではなくなってしまったことへの自責の念が私を襲う。たかが想像なのだから、わざわざそんな嫌な思いをすることなどないのにと自分に言い聞かせる。
――どうしてそういう想像ばかりするんだろう――
 所詮、私と彼女では吊り合わないと最初から決め付けているのか、それともよほど怒った時の声が印象的で頭から離れないのか、どっちかに違いないと思う。
 私はそれをずっと前者だと思ってきた。
 今まで彼女もできず、悶々とした日々を送る中で、そんな気になっても仕方のないことかも知れない。しかしそんな私でも絶えず女性に対しての想いは学生時代から変らぬものを持っていて、変に擦れていない分、ある意味純情だと思っている。そんな自分が嫌いであるわけもなかった。
――そうだ、あの風の囁く声――
 私が最初に聞いた囁く声は、学生時代に好きだった彼女のいつものトーンであるあの甘い声だった。それを即座に思い出せなかったのは、私の頭の中で彼女の本当の声は、怒った時の声だと思っていたからかも知れない。
 怒った声を思い出すと、彼女の顔も浮かんでくる。
 風の囁く声を聞いて、聞いたことはあるが誰だったか分からないと思ったのは、それがあまりにも彼女の甘く囁く声に似ていたからである。
――あの風の囁きは何だったんだろう――
 内容がはっきりしない。
 たぶんその時は覚えていたのだろう。声のトーンに対してというよりも、内容にドキリとした記憶だけは残っている。その時以外にも何度か同じようなことを聞いたはずで、しかもそれがいつも同じ場所だということを、聞いた瞬間、何となく理解したような気がしていたからだ。
 好きな人の出現が、その内容だったのかも知れない。
 自分にとって都合のいいことという思いが強いせいか、私にはどうしてもそう思えてしまうのだ。
 ウキウキした気持ちが続いたのはそれからだった。
 気になっている彼女のことが次第に分かるようになってきた。
 彼女の会社は私の降りる駅の隣の駅にあり、普通のOLをしているということ。時々一緒に乗ってくる同僚らしき女性との会話に聞き耳を立てている私に、彼女が気付くはずもなかった。
 最初の頃は私の想像どおりの女性で、仕事風景が目に浮かんできそうだったのだが、一緒にいる女性との会話から、ショッキングなことを聞かされたのは、それからまもなくのことだった。
 どうやら彼女は既婚者らしい。夫と子供がいて、彼女は結婚後も家計を助けるために、退職することなく結婚前の会社で仕事をしているというのだ。会話の内容から、彼女が他の社員から信頼されていることだけは見て取れる。
――それにしても最近の彼女は少し変ったな――
 最初彼女に気付いたのは私に対する視線だった。
 しかし私がその視線に気付き、彼女を意識し始めてから、ぱったり彼女の視線が私に向くことはなかった。まるで避けられているのではないかと思えるほどで、彼女が私の視線に気がつかないはずはないのにである。
 しかも、私を見つめていた頃の輝いたように見えていた目が、今では信じられないほど死んだような目をしている。そこには輝きはおろか、あらぬ方向を見ているようにさえ思え、焦点が合っていないかのように虚空を眺めている。
――何かあったに違いない――
 私にはその表情の変化の意味がよく分からないでいた。しかし、記憶のどこかに同じような表情の女性が見え隠れしている。
 それも最近のことではなく、かなり前……。
――そうだ、あの時の母親の顔だ――
 そう感じるまでに、それほど時間が掛からなかった。
 小さい頃家族で行った海での母親の顔……。 
 何度か同じ海に行っているが、明らかに母親の表情に変化の波のようなものがあったのを子供心にも感じていたのだ。
 ひょっとしてマザーコンプレックスなのかも?
 とも感じたが、確かに母親に対してさらなる愛情を期待したのだが、それよりも海に出かけた時に見る母親のことを、ある意味冷静に見ていたのかも知れない。
 海で出会ったおねえさんに対し、いろいろな目を持っていたこともその一つで、おねえさんとしての気持ちが強かったのも事実で、恋人として、母親としても見ていたに違いない。
 そんな私の想いを、おねえさんは分かってくれていたようだ。恋人として接してもらいたい時は甘えたような猫なで声に変ったり、母親として求める時は逆に甘えさせてくれたりした。
 自分の母親にさらなる愛を期待しながらも、冷静に見ることができたのは、おねえさんが私の気持ちを分かってくれていて、私の思い通りの女性になりきってくれていたことが最大の理由である。
 確かに母親は、毎回海に行くごとに表情が変った。
 いや正確には、到着した時と帰る時で同じ表情だったことがない。
 海に行く時はソワソワと落ち着かず、イライラしているのかと思いきや、どうやら楽しみのためワクワクしているのだった。
 だが、帰る時というと、満喫できたのか、満足感が顔からにじみ出ている時がある。そういう時は、紅潮した顔が日焼けに隠れていて、なかなか分かりにくいものだが私には分かっていた。
 そんなことはまれであった。ただ疲れているだけで、満足感のかけらもない時や、これも日焼けのため集中して見ないと分からないが、涙がつたったのか、頬や瞼に跡が残っていることすらあった。目は真っ赤で、そんな時はまともに誰とも視線を合わそうとはしなかったのだ。
 そこまでは分かっても、所詮は子供である。詳しい事情など分かるはずもなく、何も黙して語らない母親をじっと見つめるだけしかなかった。
 私がいつも風の囁きを感じる時、一番に思い出すのは母親の顔だった。子供の頃海で見た顔には違いないのだが、それがいつの表情だったか、はっきりしない。というよりも風の囁きを感じる時々で、母親のどの表情かが判断できているのかも知れない。
 その時の彼女の顔が母親に似ていると感じた時、それが私にとって彼女が他人ではないと思い始めた時だったのかも知れない。

 それから約一月が経っていた。
「そう、お母さんの面影があったの」
「ああ、君を見た時、最初にどこかで見たようなとは感じたんだけど、それが母親だと気がつくまでにかなり時間が掛かったよ」
 私の左胸に隠れるようにして顔を埋める彼女、名前を優梨子という。たった一ヶ月でお互いのすべてを知り合うような関係になった大胆さを持ち合わせている彼女だったが、女性としての恥じらいをしっかり持っていて、それが男心をくすぐるのだ。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次