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短編集10(過去作品)

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――脅えたような語り口調――
 何度も反芻しながら記憶を呼び起こしているが、頭の中でグルグル回っているだけで、一向に思い出す気配がしない。
 それがあの時だったのだ。
 今日、ここで語り掛けてくる風の優しさは、はっきりと思い出すことができる。
――浜辺のおねえさん――
 記憶の扉が開かれた。
 おねえさんのことを思い出したから風のささやきを感じたのか、風のささやきからおねえさんのことを思い出したのか自分でも分からない。しかし「思い出すべくして思い出した」のだ。
 歩きながら感じる爽やかな風、あぜ道に広がった雑草をサラサラと揺らしている風の音が、普段より身近に感じられる。
 音に対してこれほど敏感になったことは、今までにはなかった。電車や飛行機の騒音、人の話し声など、それほど気になる方ではなかった。友達で過敏と思えるほど音を気にするやつもいたが、彼が今ここで一緒にいたら、どんな反応をするだろう? 気にならないでもなかった。
 確かに今までに感じた風の音とは、明らかに違った。でも、その時々で何らかの理由があったような気もする。
――駅を出た瞬間に、まるで過去に戻ったような気がする――
 過去とはいつのことだろう?
 電車から降りた時と、駅舎から表に出た時とでは、何となく雰囲気が違う感覚は前から持っていた。今日のように、明るさの違い以外にも寒暖の差だったりすることもある。
 しかし、そんな感覚は学生時代からあった。それは同じ場所とは限らなかった。大学の校舎からキャンパスに出た時や、友達と飲みに行った帰りに、一人になった時などフッと自分の今いる位置に疑問が湧くのである。
 それでも、大学時代はそれだけ毎日を漠然と過ごしているため、我に返ることで急にそれまでと違った世界が目の前に広がるのかも知れない。しかしそれも一瞬で、そのことについて深く考えることもしなかった。
 かといっていつも漠然と暮らしているわけではなかった。急に将来に対して不安を感じたり、漠然とした目的のない生活に疑問を感じることもあったのだが、今から考えれば、日頃から心の奥にいつも燻ぶっていたような気がする。
 それがたまに顔を出す。
 ただそれだけだったような気がする。
 その頃にも風を感じたような気がする。誰かが語り掛けてくるという思いもなかったわけではない。ある時友達に話したことがあったが、
「それ、俺も感じることがあるよ」
 と言っていた。
「俺は気にしてないけどな」
 そう言って高笑いをしていたが、心なしか顔が引きつっていたような気がする。なるべく話題をそらしたいのか、その話題はそれだけで終わってしまった。
 確かに私もあまり触れたい話題ではなかった。なぜその時友達に聞いてみる気になったのか、自分でもはっきりと覚えていない。
 友達のその話を聞いて安心するかと思いきや、逆に言い知れぬ不安に駆り立てられた。しかしそれもすぐに記憶の奥にしまいこまれ、それからそのことについて必要以上に気にすることはなくなった。
 だがそれからしばらくしてのことだった。
 今度はその友達から「風」について触れてきた。
「この間の話なんだけどな。ほら例の風がどうのこうの言ってた」
「ああ」
「この間はあまり気にしないと言ってたけど、実は気にしていたんだよね。あの時、あまり気にしてないって言ったのは、実際感じてはいるが、それが別に生活に影響してくるわけじゃなかったからなんだ」
「じゃあ、今は何か影響があるのかい?」
「ああ、でもいい方への影響みたいなんだ。最初風の音がはっきりと分からなかった時は気持ち悪いだけだったんだけど、今はそれが何となく分かってきたんだ。どうも都合のいいことだけが分かるようになってきたのか、そういう時は実現するんだ。まるで、『幸運の女神』を手に入れたような気分なんだ」
「ほう、それはよかったじゃないか」
「お前にはそういうことはないのか?」
「ないんだよね。風が語り掛けてくると感じる時もあるんだが、何て言ってるのかはっきりと分からないんだよ」
 友達の愉快そうな顔とは対照的に、さぞや私の顔は何ともはっきりとしない表情を浮かべているに違いない。
「だから、俺は風が囁いてくれる場所を一日に一回は必ず通るようにしているんだ。いや、帰りを考えると二回かな?」
 私の場合、同じ道を通っても、風の囁きが聞こえるとしたら夜だけだった。大通りから田舎道に入ってすぐ、その時に語り掛けてくる。
「行きでも帰りでもお構いなしに語り掛けてくるのかい?」
「そうだね、別に決まっているわけではない。というか期待している時というのは、意外と語りかけてくれるみたいなんだ」
「じゃあ、願ったり叶ったりだね」
「そういうことだ」
 彼に語り掛けてくる声というのは、どうやら私の声の主とは「質」が違うようだ。やはり「都合のいい風」のようである。
 大学卒業後、彼は転勤で東京へ行った。念願の会社だったのは間違いないようだが、幸運の女神」と離れることをどう思っていたであろう? 東京転勤のことを果たしてその風が囁いたかどうか。私には興味があった。
 その友人とは最近会っていない。奴のことだから、いまだに「風」を信じていることだろう。
 私には密かに想いを寄せている人がいる。会社の同僚とかであれば話をすることもあるのだが、その人とは毎日顔をあわせているが、会話をしたことがない。
 顔をあわせているというのは私が思っていることで、相手にとって知らないことかも知れない。
 毎日同じ時間に同じ場所、そう、朝の通勤時間のことである。
 最近は朝起きるのが楽しみになっている。目が覚めた時、何となくウキウキした気分になっている自分をいつも感じるが、彼女の存在に気付くまで、そんなことはなかった。
 朝の時間を楽しむなど、会社でのその日一日のことで頭がいっぱいだった頃の私には考えられないことで、目覚めは喧騒とした気分を高めるだけのものだった。
 しかし彼女の存在がこれほどまでに私の目覚めを変えてくれるなど、最初から分かっていたことではない。私が彼女に気付いたのはまったくの偶然だった。いつも電車に乗ればまわりを無意識に気にしてしまう私は、癖になってしまった毎日、ただ漠然と車内を見渡すだけだったのだ。
 いつからだったのだろう?
 彼女の視線に気付かなかった自分も迂闊だった。初めて気が付いたのが、視線が合ったその時だというのだから、さぞかし私も鈍感である。
 漠然とした毎日はその日から一変してしまった。
 こちらを見つめる目を、それでも最初は自分にだと気付かなかった。まわりを見渡そうとする私の視線がそこで止まり、まるで金縛りにかかったように動けなくなったその瞬間に私は一体何を考えていたのだろう。
――どこかで見たような――
 という思いがあったのは一瞬だった。しかしその一瞬のことがずっと頭の奥にしまいこまれているのも事実だった。
 どこかのOLであろうか。紺色のブレザーに同じ色のタイトスカート。スリムな身体のわりに、胸のラインやヒップがくっきりと浮かび上がっているのは、着痩せするタイプではないかと思わせた。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次