短編集10(過去作品)
もちろん街灯はある。とはいっても所詮、昔からあるものなので、暗闇を補えるほどのものではない。最近でこそ慣れてきたが、最初は不気味だった。
元々この駅で降りる人もこの時間というのは少なく、しかも駅前に住んでいる人が多い。もう少し遅い時間になれば、呑んでくる人とかもいるかも知れないのだが、この時間は中途半端なのか、歩いているのはいつも私一人である。
そういえば、以前会社の呑み会があった時、酔っ払った状態でこの道を通ったことがあった。もう午後十時を過ぎた頃で、あの時は数人この道を歩いていた。
私はあまり呑むことがないので、酔っ払うとどうしてもゆっくりペースとなるが、他の人たちは慣れているのか、歩く姿も堂々と足早だったのを覚えている。
いつもより広い道に思え、その分やたら目的地までが遠く感じられた夜だった。
歩きながら感じたのは、
――空の近さ――
であった。
特にその日は星が綺麗に見え、いつもよりたくさん散らばめられていた。今にもいくつか落ちてきそうな星空を見上げていると、目の前の道も近くに感じるかも知れないと思うのに、なぜか道だけは遠く感じられた。
星だけではない。その日は満月であった。角を曲がると正面に黄色く光る月光を浴びた時、眩しいくらいに感じたのである。空が近く感じたのは、その大きな満月を見たからなのかも知れない。
――ああ、そうか――
なぜ道が遠く感じるかほろ酔い気分の中で気が付いた。
満月が目の前の低い位置にあるためか、昼間のように明るく、前を歩く人の影が、はっきりくっきりと浮かび上がっている。しかも細長く気持ち悪い。それほど身長のない人の影が、これ以上ないというくらいに地面にへばりつくように影となって伸びているのを見た錯覚に違いなかった。実に気持ち悪い限りである。
その時、少しばかり吹いてきた風に煽られるように、田んぼの稲穂がサラサラと音を立てていた。
去年の秋のことなのに、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
ゆっくりと歩いているのだが、前にも一度同じようなシチュエーションがあったことを思い出していた。
やはり同じような時間帯だったと思う。あの時も、
――以前、同じような思いをしたことがあったような――
という感覚になった記憶があるのだ。
頬を撫でるような風、何となく生暖かい中に、冷たさを感じるようで気持ちいい。ムシムシした中をここまで歩いてきたにもかかわらず、私の中では爽やかなものがあった。
さすがにそよ風とまでは行かないが、これが昼の明るい時間帯であったなら、そよ風だと思ったに違いない。ジメジメした空気の中でも爽やかな風が吹いてくるだけで、どれほど気持ちのいい空気に変わることか、想像してしまう。
歩いていくにつれ、私の頬に当たる風が少しずつ強くなっていくのを感じた。強くなるとは言っても、爽やかさに変わりはなく、火照った体に心地よい程度である。
ヒューヒュー
風の音が耳を掠めるのがはっきりと分かってきた。
小さい頃、家族と一緒に行った海を思い出していた。釣りが趣味だった父親に連れて行かれ、ちょくちょく家族で出かけていたのである。
父親は放っておいても、一人で気ままに釣りを楽しむからいいのだけど、私と弟の二人を抱えた母親は、よく近くの漁村に連れて行ってくれた。
そこはこじんまりとした入り江になっていて、砂浜が小さいながら続いていた。そこで私と弟は、よく一緒に遊んだのを覚えている。
確かあの時、「おねえさん」と呼んでいた人がいたような気がした。
母親はその「おねえさん」に自分と弟を任せ、いつもどこかへ行ってしまった。それも私と弟があまりにも「おねえさん」になつくことで、解放された気分になったのかも知れない。それをその頃の私たちに分かるはずもなかった。
だがそんな時、子供心にも「おねえさん」の顔が微妙に暗く見えたのはなぜだったのだろう? 今でもよく分からない。
よく「おねえさん」と砂浜に行ったものだ。巻貝を見つけては耳に当てて遊んでいたのは、そんな時だった。
「ね、聞こえるでしょう?」
そう話しかけられても何が聞こえるのかよく分からない。「ヒューヒュー」と耳の奥で何かが聞こえる、ただそれだけだった。
「おねえさん」も巻貝を耳にあててその音を聞いている。
目を瞑って聞いている姿は子供心にも色っぽく見え、時々喉を鳴らしているその姿に、ドキリとしたものを感じたものだ。
「何が聞こえるの?」
「聞いてるとね。気持ちよくなってくるの」
そういいながらニコリと笑った。何となく彼女の表情から淫靡なものを感じ、子供が聞いてはいけないものなのかもと思った。それであれば、子供である私に聞こえないのも当たり前かも知れない。
いや、同じものを聞いていて、大人にしか理解できないものだということなのだろう。
そんなものが存在するかは別として、私はその時そう理解することにした。
面倒をみてくれる「おねえさん」によくなついていた子供、微笑ましい光景だったに違いない。しかし、親と放れて遊んでいた私たちには「おねえさん」しかいなかった。
彼女がどんな素性の人かは、詳しく知らない。彼女のおにいさんと、自分の母親が知り合いだということは知っているが、それ以外は知らない。ただいつも面倒を見てくれる「おねえさん」ただそれだけだった。
遊びに行った時、何度となく彼女は巻貝を耳にあてて見せた。その都度気持ちよさそうな顔をする彼女が見たくて、わざと私の方から巻貝を耳に当てる素振りをするが、私には相変わらず、ただ空気が通り過ぎる音としてしか感じることはなかったのだ。
私にとって、今でもたまに夢に見る子供の頃の思い出、会社からの帰り道、時々思い出すことがあった。なぜだか分からなかったが、その時は何となく分かるような気がしていた。
角を曲がると風が急に強くなることが時々あった。その時に思い出していたのかも知れない。
耳を掠める風の音、それはまさしく巻貝を耳にあてて聞いたあの時の音に似ている。
大人になったら分かる。
とおねえさんは言っていたが、子供の私に分かるはずがない。
これのどこに気持ちよさが入っているのか分かるはずなかった。真っ暗な道を歩いていて、気味悪さが増幅されるだけとしか思えない。しいて言えば風に冷たさを感じる分、ましなのかも知れない。砂浜で感じた潮の混じったベタベタ感が、私にはとても辛かった。
風が優しく語り掛けてくれているような気がしてきた。
以前風が強かった時にも、同じように巻貝のことを思い出していたような気がする。しかしその記憶はすぐに消え去り、思い出したことすら、すでに頭の中の奥深くに封印されてしまったようだった。
その時はやさしく語り掛けてくれたという記憶ではない。芯の太い男の人の声だったような気がする。その声の主が誰だったか、その時なら分かったのだが、今となっては声を思い出すことすら不可能だ。
父親だったのかな?
いや、違う。自分の知っている父親があんなに声が低いはずはない。
どちらかというと、何かに脅えているようにも聞こえたのは、私が知っている声の主がいつも脅えたような語り口調だったからかも知れない。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次