短編集10(過去作品)
そういえば少し長かったような気がする。
――鏡を見ていたのかも知れない――
そう感じたのは、やはり変えようとしない表情を見たからだろう。
私も時々同じような行動を取ることがある。苛ついたことがあった時など、鏡の前に立てば落ち着くのだ。じっと見つめているつもりでも、時間が経ってくれば見つめられていると思い始め、今度は何も感じなくなる。見つめられることに普段から慣れていないので、最初だけは緊張しているが、慣れてくれば恐ろしいもので、自分が無表情に変わっていくのが手に取るように分かってくる。
どれくらいの時間が経っているのか、最初に時計を見ていようと思っても、最後にはそんなことなどどうでもよくなってくる。まるで違う人格が宿ったような気がしてくるのだが、元々の自分の性格を知らない私は、まるで初めて自分の性格に触れたように感じるのだ。
私はどちらかというと嫉妬深い方だったに違いない。
今ではそんなことないのだが、高校時代などは、好きな女の子が自分以外の男性と話しているだけでもイライラしていた。高校時代という多感な時期には往々にしてありがちなことなのかも知れないが、そんな自分が嫌で嫌で堪らなかった。
顔は紅潮し、背中にはグッショリと汗を掻いていた。唇の微妙な痙攣は頬の緊張感を漲らせる。いつもトイレに行っては洗面台で顔を洗って、濡れた顔のまま鏡を見る癖がついていた。
――何と情けない顔をしているのだろう――
眉は垂れ下がり、唇を若干尖らせたような表情は、哀れを誘った。自己嫌悪に陥りそうな表情を見つめていると、睨みつけたくなるもう一人の自分がいるのに気付く。
睨み付けるのだが、睨みつけられた鏡の中の顔はさらに情けない顔を私の目に写す。
――なぜなのだろう?
疑問に思うのはいつも後になってからだ。その時はただ、情けない顔を浮かべる鏡の中を睨みつけているだけなのだ。
その時から、私は鏡の中の自分が別人ではないかと思うようになっていた。
鏡の中の自分も、まったく同じような表情をするこちらの世界の私に気付いていないのかも知れない。
洗面台で顔を洗い、その顔のまま鏡を見ることで、私はいつも我に返る。睨みつけているはずの私が睨みつけられている錯覚に陥ることがあるのかも知れない。きっとそんな時に自分でも信じられないような無表情になっているのかも知れない。
「何だい。顔を洗ってすっきりしたんじゃないのかい。まるで魂を抜かれたみたいな顔をしているぞ」
以前に友人にそう言われた。苦笑するしかなかったが、今考えれば彼女のような表情だったのかも知れない。
――冷たい頬をあったかい手で触って感じるのは、手か頬か、どちらなのだろう?
時々そんなことを考えたりする。手に集中しても、頬に集中しても、気が散ってしまってなかなかどちらも感じることができないでいる。お互いを打ち消すような感じになってしまうのだ。
特に私は左右の手で違うことをするのが苦手なのだ。そのためピアノやギターのような楽器は最初から無理だと思っていた。
元々から器用ではない私なのだ。
ある意味素直で、一途な性格なのかも知れない。見たり聞いたりしたものをそのまま信じ込んでしまい、損をすることも今までに何度もあった。特に相手があることであれば、誤解が誤解を呼び、ややこしいことになったこともあったくらいだ。
「もう少し柔軟なものの見方ができないものなのか?」
友人からよく言われる。
「そうなんだよね。いつも損をするのも嫌だしね」
そう言って苦笑する私に対し、何も言わず、ただ友人も苦笑するばかりであった。きっとそれ以上は言葉にならないのかも知れない。
口では治したいと言っていても、私はこの性格が悪いとは思っていない。確かに損をする性格だが、人に迷惑を掛けるわけでもなく、むしろいい性格だと思っている。少し考え方を変えるだけで、今までのような損をしなくなると思っているからだ。
しかし、根本的に嫌いではない性格を少しとはいえ変えることは、なかなか難しいことだった。どうしても最初に根本を変えたくないという考えがあるため、どうしようもない部分にぶつかってしまう。
今まで狭い視野でまわりを見ていただけなのだ。それを少し広げれば、広げた以上にいろいろなことが見えてくるような気がしていた。そこにはきっと省みることができる自分が存在し、お互いを見つめることで、さらなる視野が広がってくると考えるからだ。
そこでネックになるのが、左右の手で違うことができないということだった。それは手に限ったことではなく、身体全体がそう思い込んでいる。一つのことに集中すると他のことがまったく見えなくなってくるからだ。
しかしそれだけ集中していて一つ一つを正確にこなすことには長けているのだ。この感覚も捨てがたい。一つを終わらせないと次には行けない性格というのは、一長一短でもある。
――もう一人私が存在していればいいんだ――
何度そのことを思ったか。
しかし、きっと存在していてもそれが私であると気付かないであろう。存在するなら同じ性格の私ではないという気がするし、まったく同じ性格なら、却って分からないかも知れない。近くにあって、一番目立ちやすいものが一番見つけにくいということもあるからだ。
――鏡の中――
もし存在するとすればそれは鏡の中だろうと思うようになったのは、夢を見てからのことだった。それも一度だけの夢ではない。何度か見ている。そのため、最後に見たのは最近だったような気がするのだが、それがいつだったかはっきりせず、見たことをふっと思い出すことはあっても、次の瞬間には忘れている。思い出したという記憶だけが頭の中に残るだけだった。
――もう一人の私が存在するのでは?
と考えるようになったのは、小学校の頃「お姉さん」についていって、思いがけない行動を取られた時だった。
あの時はびっくりしたが、重なった唇が離れた瞬間、
――初めてではないような気がする――
という思いが頭を掠めた。確かに感覚は初めてのものだったのだが、シチュエーションやその時の気持ちは以前にも味わったことがあるような気がするものだった。
鏡を見たのは無意識だった。
鏡の中の自分がこちらに向かって微笑みかけているように思えて仕方がなかった。鏡の中の自分との決定的な違いを感じたのはその時だ。
――どうして鏡の向こうの自分は、こんなに余裕のある顔をしているのだ?
そう思うと、不思議な焦りのようなものを感じた。
躁鬱症の気がある私は、何度それに迷わされてきたか。
――ああ、まもなく鬱になるな――
そう思うと、私は必ず洗面台の前に立つようにしている。冷たい水で顔を洗い、そして鏡に写った自分の顔を見るのだ。
少し情けなさそうな顔をしている、いつも同じ顔だ。まるで判で押したように唇を半分開き気味にして、虚ろ掛かった目が少しだけ水ですっきりしている。冷たい水を感じて赤くなった顔にあまり精気を感じることはできない。
そんな時は鏡の中の顔に疑問は浮かばない。鏡は真実を映し出すものだという思いがあるだけで、それだけに「今の自分」を瞼の奥に焼き付けておきたいのだ。
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次