短編集10(過去作品)
男の方がかなり年上ではないだろうか。自分より年上の人の年齢はほとんど分からない私だったが、少なくとも彼女と歩いていて違和感を感じてしまうほどの歳の差に見える。
――自分の父親の少し若い頃に似ている――
そう思って見ていると、他人ではないような錯覚に陥る自分が不思議だった。
二人の間に笑顔はない。少なくとも彼女は無表情だった。私といる時には、ニコニコしたり、急に哀しそうな顔になったりと喜怒哀楽のはっきりした表情を常にしていたこともあってか、今の彼女に苛立ちを覚える。
――もし、今ここで私が飛び出していったら、どんなリアクションを示すだろう?
そんな衝動に駆られて、飛び出していきそうな気持ちを何度必死で抑えたことか。私の存在を知る由もないだろう彼女は、無表情のまま私の前を通り過ぎていった。
――もう、これで会うこともないだろうな――
子供心にもそう思った瞬間、彼女の顔は私の記憶の中でモザイクが掛かってしまった。きっと見てはいけないものを見てしまったのだろう。自分自身が認めたくないもので、それが無表情な彼女だったに違いない。
それからの私は少し変わった。いや、変わったというよりも、自分の性格に気付いたと言った方が正解かも知れない。
――自分はまわりの流れに関係なく行動するタイプだ――
皆と同じことをするのを極端に嫌うようになったのは、それからだった。いつも同じ友達同士で固まっているのを見ると嫌悪感がこみ上げてきて、いかにも嫌な顔をしていることだろう。しかも気持ちが顔に出るタイプだと思うようになってから、却って気持ちを隠そうという気がなくなっていた。これも私のどうしようもない性格の一つである。
――トラウマとして残っているのだろうか?
残ってしまったトラウマが、私自身を省みさせてくれているのかも知れない。その思いは今でも持っていて、それだけにいつも気持ちの中に「余裕」を持っていたいと思うようになっていた。
喫茶店で微笑みかけてきた女性に見覚えはない。まったく初めて会った人に違いないのだが、私の場合、じっと見つめていたり見つめられたりすると以前から知り合いだったような錯覚に陥ってしまうことがある。
私は人の顔を覚えるのが、極端に苦手な方である。そのため、どこかで見たことがあるような気がするとついつい凝視してしまって相手に嫌な思いをさせてしまうこともしばしばだった。何度となく友人に注意を受けたのだが、それが無意識の行動であるため、なかなか治すまでにはいかない。
覚えるのが苦手だと思っていたが、見つめた人が以前から知り合いだったような錯覚に陥ることを考えると、覚え切れないのではなく、覚えた顔を頭が整理できないだけではないかという気がして仕方がない。そう考えると余計に人の顔を忘れていくようで、我ながら不思議な気がしていた。
女性は誰かを待っているようである。目の前に置かれたコーヒーカップから出ている湯気を見ると、彼女がここに来てから間もないことが分かる。テーブルの上には文庫本が開いたままの状態で、うつ伏せに置かれていた。ちょうど半分くらいまで読んでいるようである。
左肘をテーブルの上に置き、右手に持ったスプーンでコーヒーをかき混ぜている。
「チャリーン」
乾いた音とともにスプーンを置き、コーヒーカップを口に持っていく。気がつけば私と同じ行動をしているのだ。
相変わらず微笑んでいるが、一口コーヒーを口に含むと表情が一変し、無表情に変わっていった。
一番難しい顔である。表情から心境を計り知ることは不可能で、まったく隙のない顔になっている。顔だけはこちらを向いているが、視線はまわりをグルリと見ているようで、私にとっては意外に感じられた。
――何かに怯えているのかな?
それにしても何を考えているか分からない。ただひとつ言えることは、彼女の表情に余裕がなくなってしまったということだけだ。
誰かを待っていると思ったのは早合点だったかも知れない。それにしても私の顔を見るなり、変わってしまった表情に少なからず驚いていた。
私は再度カップを口に近づける。香ばしい香りを感じながら喉の奥に流れ込んでくるコーヒーは先ほどより少し甘く感じられた。後口に残るようなコーヒーが好きなのだが、これほど甘みを感じてしまえば、後口で残ることはないだろう。
コーヒーの味をそれほど感じなくなると、自分の顔も無表情になってきていることに気がついた。
彼女は時計を気にし始めた。やはり誰かを待っているのだろう。ソワソワし始め、苛立ちが目に見えて目立つようになってきた。
私の顔を見ると今度は先ほどまでと違い、落ち着いてくるような感じがした。逆になってきた彼女の態度に最初は戸惑いを感じていたが、私の顔を見ながら微笑んでいるのを見ると、思わず微笑み返している自分がいるのだ。
――男を待っているのかな?
少なくとも最初のソワソワは男を待っているようだった。最初から落ち着きがなく、ソワソワしていたことを思えば、
――男が来ないのでは?
と、冷静に見て思っているようだった。
最初に見た時の彼女の笑顔が頭から離れないでいた。それが次第に真顔に変わり、そして苛立ちに変わってくるまでが、結構早かった。頭から離れないのは、あまりの変化の早さに対応できないのもあるかも知れない。
――いや、きっと笑顔が彼女の本来の顔なのだろう――
私には分かっていたような気がする。落ち着いて考えると真顔の彼女にだけ何となく見覚えがある。
――そうだ、あの時のお姉さん――
そう感じると頬が熱くなるのを感じた。
コンパで初めて飲んだアルコール。その時初めて感じたはずの酔いというものが、過去にも一度感じたことがあるのを認識していたが、それがいつだったかどうしても思い出せなかった。しかし、今ここで飲んでいるコーヒーに味がなくなり、目の前の女性に「公園で会ったお姉さん」を思い出すことによって、まさにアルコールが喉の奥に引っかかっているような錯覚を感じているのである。
「おいしいわよ」
お姉さんはそう言って私にジュースを勧めてくれた。普通の清涼飲料水に違いないと思って飲んでいたし、しかも子供だったので、知らない味がしたと思ってもそれが何なのか分かるはずもなかった。
――まさか本当のお酒ではあるまい――
心の中で打ち消せば打ち消すほど、今飲んでいるコーヒーにアルコールの味を感じていた。私は雰囲気に酔うことでアルコールが入ったような錯覚に陥ってしまうのだろうか?
何となく彼女の顔が上気していくのを感じていた。
目が虚ろになり、私を見つめている。きっと今の自分も同じような顔をしているのだろう。錯覚ではないような気がしていた。
おもむろに立ち上がった彼女はそのままトイレへと向かった。立ち上がったその表情に怯えのようなものが走っていたのを必死に隠そうとしていたが、角度が変わると却ってはっきり分かる。
彼女の行動パターンが見えてくるような気がした。
トイレから出てきた彼女の表情はまったくの無表情だった。笑みが浮かんできそうなのだが、決して表情を変えようとはしていない。
――トイレで何か心境の変化があったのだろうか?
作品名:短編集10(過去作品) 作家名:森本晃次