なんとなく歪んだ未来
「なるべくなら苦しまずに死にたい」
と思うのではないだろうか。
どんなにこの世に未練がないほどやり残したことはないという人がいたとしても、苦しまずに死にたいと思うのは当たり前のことである。
修も当然のことながら、死を意識すると、まずは苦しみたくないと思ったものだ。
死を苦しいものだと思うから死にたくないという思いから、不老不死の発想が生まれたのではないかという考えはあまりにも安易ではあるが、突き詰めれば同じようなところに着地するのではないかと思うのだった。
生まれ変わるということは、一度は死ななければいけないということ。しかも、生まれ変わった時には、前世の記憶はまったくなくなっていて、完全に別の人になっているだろう。
それはもちろん、人間に生まれ変わったという前提の下にであるが、そう考えると、
「人間、死んでしまえばそれで終わりだ」
と言えるだろう。
不老不死への思いは、この発想からも生まれてくる。だからこそ、いろいろな宗教がこの世には存在していて、神様仏様を信じることになるのだ。
メジャーな宗教のほとんどは、
「この世で救われない人々は、あの世に行ってから救われるようにする」
というものであろう。
昔から争いの絶えない人類は、その理由が他の動物のように、生きるために不可欠な連鎖という本能的なものではないのだから、一部の権力者による殺し合いが、庶民を巻き込んでしまい、死にたくもないのに殺されることになるというのは、今の人から思っても理不尽なことであろう。
誰だって死にたくはない。それなのに、自ら志願して兵隊として戦って死を選ぶ人もいる。戦わなければ生きていけない人もいるのだから、庶民が戦争に巻き込まれるのも仕方のないことなのかも知れない。
それでも、あの世では救われたいという思いから、宗教は発達してきた。
だからこそ、戦争の理由の多くに、「宗教紛争」と言うものがあるのだ。
「この世で自分たちの信じる宗教のために戦って死ぬのであれば本望だ。死んであの世に行けばきっと救われるのだから」
という発想になる。
自爆テロなどの過激な行動は、まさにその通りだ。
しかし、それは本当の彼らの意思なんだろうか?
プロパガンダによる洗脳ではないかとも思える。
また、実際にそう思っている人も少なくはないだろう。
「人間、死んでしまえばそれまでだ」
まさしくその通りである。
そんな人が考える不老不死、これはあの世に行っても、結局変わらないという考えで、いや、それ以前に、
「あの世なんて、本当に存在するのか?」
という発想もありえるのだ。
そう思ってくると、生まれ変わりや、前世などという考えはまったくの無意味なもので、これだけたくさんの人が時代を超えて生きてきたのに、誰一人として前世の記憶を持っている人がいないというのも、前世という発想に対してまったく信憑性のないものだと思うのは、至極当然のことだろう。
その考えが不老不死の考えを生んだのかも知れない。
「生命のあるものには、必ず死は訪れる」
という考えも生まれてくるが、ただ、これも前世の記憶がないのと同じで、人間で死ななかった人は一人もいないのである。そういう意味ではこちらの信憑性もまったくないと言ってもいいだろう。
ただ、寿命は延ばすことができるかも知れない。延命という意味もあるが、不治の病で余命何ヶ月と言われている人でも、何とか保存することができて、今の時代では不治の病でも、数十年後には不治の病ではなくなっているかも知れない。そんな時代にもう一度蘇生させればいいという考えもあるだろう。
実際にそんな研究をしているところもあるのではないだろうか。一般市民には知られていない国家プロジェクトのようなものが進行しているのかも知れない。
ただ、それも宗教団体からすれば反対意見もあるだろう。
「神様によって決められた寿命を、人間の手で勝手に操作していいものなのだろうか?」
という考え方である。
「寿命を変えると言われるが、そもそもその人の寿命がいつなのかって、誰が決めているんだ? それだったら、怪我をしたり病気の人が放っておけば死ぬことになるとして、そんな人たちを治療によって助ける医者は、神に対しての冒涜を働いたということになるんじゃないか?」
ということになる。
確かに誰の寿命がいつまでなどということは誰にも分からない。分かることができるのだとすれば、それは本人以外にはありえないだろう。
その本人が知らないのだから、他の人がその人の寿命について語るというのはおかしな話だ。それこそ、
「神への冒涜」
になるのではないだろうか?
しかし、太古の昔から、
「死んだ人はいずれ生き返る」
という発想からなのか、皇帝が死んだらミイラにして、後世に残そうとする風潮があった。それは古代エジプトだけではなく、古墳と呼ばれるものができた東洋でも同じ発想だったのではないだろうか。
愛梨が不老不死について話をしたのは、二人が大学生になってからのことだった。愛梨からそんなに長く生きられないという話を聞くことになる二ヶ月前ほどのことで、後から思うと、
「この頃から愛梨は、自分が死んでしまうということを自覚していたのだろう?」
と思えた。
愛梨は決して死を怖がっていたわけではない。
だから、修には愛梨が死ぬなんてこと、想像もできなかった。あまり長く生きられないという話を聞いた時、確かにゾッとしたものを感じたが、すぐに我に返ったのを思い出した。
余計なことを口にしなかったのは。正直何を言っていいのか分からなかったからで、少なくとも、
「縁起でもないこと、言うんじゃない」
と言いたくなかったからだ。
だが、後から思い返してみると、
――あの時、縁起でもないと言う言葉を言わなかったとずっと思っていたが、本当は口に出していたのかも知れない――
と感じた。
――口に出したにも関わらず覚えていない――
そんなバカなことがありえるのか?
後から思い出してから感じたことではなく、言ってはいけない言葉だから口に出していない。それが曖昧だということは、考えるに、
――相手のリアクションが記憶のすべてだったのではないか?
という思いであった。
あの時、愛梨がどんな顔をしたというのだろう?
記憶にあるのは、
――こんなに冷静で、冷徹な愛梨を見たことはない――
というものだった。
さらに、そんなに冷徹な表情は愛梨にだけではなく、今まで生きてきた中で、これ以上の冷徹さはなかったような気がするというものだった。
何を持って冷静で冷徹かというと、それは、表情の変化にあると思った。
ポーカーフェイスという人は確かにいたが、愛梨もどちらかというとポーカーフェイスのところがあった。しかし、話の内容が内容だっただけに、その場の雰囲気が冷たくなっていて、どんな表情をしていても、凍りついた雰囲気は拭えないだろう。そこまで感じていたのに、
――こんなに凍りついた表情は初めて見た――
と感じ、ゾッとしてしまった。
心の準備があってもまださらに凍りついた状況に、修は正直、逃げ出したい気持ちになったのだった。
作品名:なんとなく歪んだ未来 作家名:森本晃次