なんとなく歪んだ未来
ペットとして幼い頃に犬がそばにいたことで、余計に子供の頃に自分の前世が人間以外ではありえないと思っていた。つまりは、動物である犬であっても、ペットとして一緒にいれば、それは家族同然、人間と変わりなく接しているつもりだった。
実際には人間と同じように接することができるわけもない。癒しの道具としてしか見ていなかったのは明らかで、その思いを感じないようにしなければいけないと思っていたのだろう。
もちろん、それは無意識のことである。感じてしまうと自分の普段感じていることのほとんどを否定しなければいけなくなることを分かっていたからだ。
否定しなければいけないということを分かっていたのも、癒しの道具だとしてペットを見ていたという意識も、感じないようにしていた行動は、明らかに本能から来るものだ。理性であっては、その次の発想を浮かべてしまう。つまり理性と本能の違いは、最初に思い浮かべた発想から、次の発想をできるかどうかという違いでも分類できるのではないかということであった。
修は自分が人間嫌いになったのは、
――自分の前世が人間以外だったのかも知れない――
と思うようになったからだ。
さすがに路傍の石だという発想まではなかったが、自分に前世が人間以外ではないかという思いを抱かせたのは、ペットである犬が死んでしまった時のことだった。
修が子供の頃、一緒に遊んでいた犬は、実はすでに十歳を超えていた。
人間であれば、老人に近い状況だったので、親には寿命が近いことは分かっていたのだろう。子供の修にはそんなことが分かるはずもなく、
――犬も自分と同じように成長しているんだ――
と思っていたのである。
最初の頃は、犬は実に従順で、どんなことを言っても、言うことを聞いてくれた。
子供の頃はそれが当たり前だと思っていたが、大人になって考えてみると、想像以上にその時の犬はよく人間の言うことを聞いていたように思えた。
――まるで人間の言葉が分かっていたみたいだな――
それが今の率直な気持ちだ。
それなのに、次第に犬は言うことを聞かなくなる。今までしてくれていたこともしてくれなくなったし、以前であれば、自分が表から帰ってくれば、喜び勇んで尻尾を振りながら抱きついてきたりしたものだった。
修が家に帰ってきても、犬は喜んでくれるが飛びついてくれなくなった。一抹の寂しさを感じながら、
――やっぱり犬は人間じゃないんだ――
という思いを修に抱かせた。
もっと他にも考え方はいろいろあったはずだ。それなのに、どうしてそういう発想にしかならなかったのだろう? その頃から自分の前世について考えるようになり、その時に自分の前世が人間以外に考えられなくなったという経緯だった。順序を追って考えていくと、どうして前世が人間以外を考えられなくなったのか、分かってくるような気がしてきたのだ。
犬は日に日に弱ってきているのを感じた。その時になってやっと子供の修にも、犬の寿命が近づいてきていることに気づくようになった。
犬の声が、何とも言えない寂しそうな声になってきていた。
「クフンクフン」
甘えるような声ではない。寂しそうな声だった。
――もし、これが言葉だったら、何て言っているんだろう?
修は想像してみたが、想像できるものではなかった。
もしこれが人間で、言葉をしゃべることのできない人だったら、何と言っていたのか分かるだろうか? 分かるはずもなかった。
――人間だからこそ、余計に分からない――
そう思うと、人間と言えど、動物よりおm距離の遠さを感じた。
犬はそれからすぐに死んでしまった。家族は数日は悲しそうにしていたが、すぐに犬がいたことなど忘れてしまったかのようにいつもの生活に戻っている。
――どうしてそんなに簡単に忘れることができるんだ――
と感じたものだ。
本当は忘れているわけではなかったのだろうが、子供の修には見た目でしか判断できなかった。その頃から人間というものが、次第に嫌いな要素をたくさん持っていることに気づいていったのだ。
子供の頃はそれ以上の発想ができなかった。どうしても、目の前に見えていることでしか判断できなかったので、中途半端にしか考えることができなかった。それが修少年の発想の限界であり、ただ、その思いがずっと燻っていたことで、大人になって思い出すきっかけがあったのだろう。
思い出してからの修は、人間嫌いと寂しさというものを考えるようになり、孤独が実は嫌なものではないという発想に繋がっていた。そのくせ異性を気にし始めるとトコトンまで妄想するのだから面白いものだ。これこそが、
――理性を越えた本能というものではないか――
と思うようになっていった。
それが理性であり、本能でもある。大人になって分かってくるものもたくさんあった。
修は愛犬が死んだ時、
「今度は人間に生まれ変わってくるんだよ」
と声を掛けた。
その時の心境を思い出すのは難しいが、後から思えば、
――どうして、あんなことを言ってしまったんだろう?
と感じた。
確かに人間は犬に比べれば寿命は長い。ペットのように十年で死んでしまうわけではない。しかし、それは人間の目から見て短く感じるからで、犬のように早く死んでしまうのなら、犬になんかなりたくないと思うに違いない。
人間だって寿命を全うしたとしても、八十年か九十年くらいのものである。千年万年生きると言われる鶴亀に比べれば、あっという間のことである。
昔から不老不死を求めての物語が多く存在している。西遊記のお話にしても、
「高貴な坊主の肉を食らえば、不老不死になれる」
として、魑魅魍魎が三蔵法師の命を付けねらう話ではないか。
三蔵法師は、お釈迦様の指示で、万民を救うとされるありがたいお経をいただきに行くのであって、私利私欲によるものではない。
あくまでの仏教の教えを元に書かれた話なのだろうが、不老不死を求める妖怪連中のことについて、読んでいる人で考えている人はどれほどいるのだろう?
修は不老不死については、ずっと疑問を持っていた。
――まわりの知っている人は皆死んでいくのに、自分だけが生き残るというのは、どんな気分なんだろう?
自分が不老不死であるということを教えられている場合と知らない場合とではかなり違っているだろう。
自分が知らない場合は、まわりで人がどんどん死んでいく。中には苦しんで死んでいく人もいるだろう。そんな人をたくさん見送って自分だけが生き残ってしまうのだ。寿命が長いだけで自分もいずれは死ぬことになる。死というものへの恐怖を溜め込んでから一人生きていくのは、これこそ生き地獄だとはいえないだろうか。
逆に自分が不老不死であるということを知っているとすればどうだろう?
ただ、不老不死に対しての条件として、事故や自殺であれば、死ぬことができるとすれば、どう思うだろう?
寿命であれば、大往生ということもある。苦しまずに死ねるというのであれば、大往生が一番誰もが望んでいるものではないだろうか。
死というものを、苦しいものだと考えるのと、それ以降にやりたいことをやり残したという精神的なもの両方がある。まずは誰もが、
作品名:なんとなく歪んだ未来 作家名:森本晃次