なんとなく歪んだ未来
修は自分の前世について考えたことはあった。その時に思い浮かんでくるのはどうしても人間以外ではありえなかった。人間であってほしいという願望というよりも、発想が狭かっただけなのかも知れない。他の人が前世について考えたとすれば、誰もが前世も人間だったと思うに違いないと、勝手に思い込んでいた。
それだけに愛梨の発想には正直驚かされた。しかもそれが子供の頃の発想だというのだから、余計にビックリだ。だが、考えてみれば子供の頃だったからこそ、そういう発想が生まれてくるのかも知れない。そう思うと、やはり自分の発想が浅はかだっただけだと思うのだった。
「でもね、最近では前世も生まれ変わっても、やっぱり人間なんじゃないかって思うようになってきたの。他のものだなんて想像できない。発想が狭くなってきたのかしらね?」
と言って愛梨は笑っていたが、修は笑い飛ばす気には到底なれなかった。
愛梨が感じていることは発想が浅はかなわけではない。自分が以前に考えていた発想とは明らかに違っているのだ。
愛梨は自分の前世を人間以外で考えていた。それが動物なのか昆虫なのか、あるいは植物なのか、まさか路傍の石のように、生命のないものだなどと考えていたわけではあるまい。
そんなことをいろいろ考えてみると、今の修には自分の前世思い浮かべてみた時、以前は思い浮かべることのできなかった人間以外だったという発想を思い浮かべることができるようになっていた。
それは自分が大人になったからではない。成長したからと言って、想像できる発想ではないと思ったからだ。
――愛梨と知り合って、愛梨の身になって自分も発想してみることでできるようになったのかも知れない――
と感じていた。
修は一番ありえないと思っている「路傍の石」になった発想をしていた。
いつも同じ場所にいて、自分では動くことができない。手も足もなければ、顔も身体もないのだ。感情だけが石の中にあり、ないはずの目が、自分の意志となってまわりを見つめている。
いろいろな人に踏まれている。人間だけではなく、動物からも踏まれ、こちらの意志などまったく分かるはずもなく、ただ通り過ぎているだけだ。
痛いなんて感じることはない。誰にも気にされることもなく、ただ佇んでいるだけ、もし自分が人間という立場であれば、寂しいという感情が浮かんでくるのだろう。
自分は「路傍の石」なのだ。まわりからは目の前にあっても、まったく意識されることはない。しかし、こちらには考えることもできれば、感情だってある。相手にはまったく分からないことであっても、自分には知ることができた。
自分を踏んづけていく人の顔をマジマジと見ると、その人が何を考えているのか、瞬時に分かってしまう。どうしてそんな能力が備わっているのか最初は分からなかったが、少し考えれば分かってきた。
――まわりがこちらのことを一切気にしないので、無防備に気持ちを表に出しているからだ――
と感じた。
しかし、それは人間であった時も同じこと。相手が何を考えているか分からないと思っていたが実際にはそんなことはない。分かろうとすれば分かることができるのだ。
――ではなぜ、分かろうとしないのか?
それは、簡単な理屈であった。
――僕が相手の気持ちを分かろうとするのと同じように、相手も同じようにこちらの気持ちを分かってしまうだろう――
という思いが強かったからだ。
自分が相手の気持ちを分かりたいと思うのと同じくらいに、相手に自分の気持ちを分かられるのは嫌なことだ。そんなことは、考えなくても分かっていると思ったが、相手の気持ちを分かろうとすれば分かるのではないかという発想に立ってみると、相手の気持ちを分かりたいという思いよりも、はるかに相手に知られたくないという思いが強いから、相手の気持ちを思い図ることができないと考えると、理解できることのように思えてきたのだ。
そんなことを考えていると、人間というのがどういう動物なのかというのが見えてきた気がした。
――人間というのは、絶えずまわりのことを気にしていなければ生きていけない生き物なんだ――
と思った。
ただ、それは他の動物にしても同じことではないか。群れを成して行動している動物も、まわりのことを意識して、忖度しながらでなければ生きていけない。特にサルなどは、上下関係が厳しいというではないか。
だが、果たしてそれは人間のようにまわりを気にしているからなのだろうか? 考えてみると、動物の行動パターンには必ず決まった法則のようなものがあるではないか。
――そうだ。動物には本能があって、群れを成しての集団行動は、その本能によるものなのではないか――
そう思うと理解できるところが大きい。
人間の場合も確かに本能というものはある。本能がなければ説明できないこともあるからだ。
修はそれを、反射的な行動だと思っている。反射神経をもたらしているものは、本能だと思っていた。
では、人間に備わっていて、動物にはないものとは一体何なのか? それこそ理性というものではないだろうか。人間は理性と本能をうまく噛み合わせて生きている。だから他の動物よりも高等なのだと考えた。
ここまで考えると、さらなる疑問が生まれてきた。
――じゃあ、人間が高等動物なのだということを決めたのは誰なんだ?
誰もが信じて疑わない、
――人間は他の動物よりも勝っている、高等な動物なんだ――
という発想である。
それこそ、人間のエゴなのではないだろうか。
他の動物が言葉を話せないのをいいことに、人間の方が勝っているという発想。これこそエゴである。ただ、他の動物にも人間にはない能力があったりする。犬であれば、嗅覚は人間の何倍も発達している。鳥に至っては、人間が太古より追い求めていた「空を飛ぶ」という願望を、最初から肉体に宿して生まれてきているのだ。だから、人間だけが他の動物に比べて高等なのだという発想はエゴでしかないのだろう。
逆に、その思いは人間というものが、他の動物とは違うという思いが強すぎることから生まれた発想ではないかとも考えられる。自分たちにはないものをたくさん持っている他の動物に昔から恐怖のようなものを感じていて、人間が勝っているものだけを突起させて人類を洗脳し、人間関係の中での優位性に結びつけていくという発想が生まれてきた。そう思うと、人間が他の動物に比べて高等だというのも、まんざらウソではないと思えてくる。
修は他の動物を元々意識することはなかった。それは人間関係のように気を遣わなければいけないというわけではないので、気軽に付き合えたからだ。
――ペットを飼う人も、同じような気持ちなのかも知れないな――
癒しを求めてペットを飼う人が多い。ほとんどの人がそうなのではないかと思うほどである。
修も子供の頃、家に犬を飼っていた記憶がある。母親がどうしても犬を飼いたいと言って父親にねだったのだと後になって聞かされたが、その犬は大きな犬で、幼児の頃の修が犬の背中に乗って、まるで乗馬のような恰好をしている写真が、アルバムには残っていた。
作品名:なんとなく歪んだ未来 作家名:森本晃次