短編集9(過去作品)
この思いに変わりはないのだが、今度は自分自身の何かを確かめたいという気持ちが強い。彼女を愛していることには変わりないのだが、その彼女の後ろに見え隠れするものが果たして自分に関係あることがどうか、確認できるような気がしたからだ。
みゆきの行動は最初で大体把握できていた。
とにかく空気の入る隙間を嫌うがごとく、寄り添ってくるみゆきの肢体すべてが、まるでタコの吸盤のように吸い付いて離れず、その肌のきめ細かさにとろけるような感触がある。少しでも汗を掻いてくれば、その隙間からの擦りあう音がとても淫靡なものに聞こえてくるのだ。
貪るようにお互いを求めることに違和感はなく、まるでずっと以前から知っている身体のような気がして仕方がない。
「あれ?」
彼女の行動にさっきとの微妙な違いを感じた。
確かにさっきのはお互い初めての身体だったことで、緊張があったに違いないのだが、その違いが緊張から来ているとは思えない。快感の波が何度となく押し寄せる中、悦楽の声を上げていた先ほどとは違い、小刻みに震えている。それは悦楽に耐えられず起こるものではなく、明らかに何かに怯えているような感じで、さらに嗚咽に近いものを感じている気がして仕方がない。
その瞬間、私の脳裏にも嫌な予感があった。
見てはいけないものを見てしまいそうな、そんな予感である。
「田山」
悦楽が身体を走りぬけようとした瞬間、頭に浮かんだ顔だった。
しかもそれは普通の表情ではなく、こちらを凝視していて、その視線から逃れることはできない。
真っ青になったその顔から、カッと見開いた目は明らかに充血しているのだが、その顔はカラーではなく、なぜかモノクロに写っていた。それだけに表情には凄みがあり、まるで断末魔の表情だった。
――断末魔?
そう感じた瞬間、私の表情も凍ってしまった気がした。
さっきまで感じていたみゆきの火照った焼け石のような肌から、その熱さがいつの間にか消えていた。
今、私はみゆきの頭の中が見えるような気がした。
田山の本性を自分なりに表情にして想像することが多く、まるで般若の面をかぶった顔を想像していたが、みゆきはそれだけではないようだ。
唇が怪しく歪むだけでこれほどいやらしい顔になるなど、私には想像もつかなかった。いつもクールな面構えなので、心の奥底を覗かない限り見れない表情である。
みゆきが田山の心の奥底を覗いたとは思えない。ひょっとして、実際にそんな田山の表情を見たことがあるのではないだろうか?
そう考えると身体の奥から悪寒が走り、先ほど想像した田山の表情の嗚咽を感じた。
なぜ、一度会うと悪寒や嗚咽が走るにもかかわらず、また何度も会ってしまうのだろう?
世の中で一番嫌いな男でありながら、その日別れた後、またすぐに会いたくなるのである。
「哀しいオンナの性」、この言葉が、まさか自分に当てはまるとは思ってもみなかった。
みゆき自身が男を求めるのか、男に求められる魅力があるのか、とにかくみゆきは自分を呪った。男は完全にみゆきを支配している気持ちになっていることは間違いない。猛烈な自己嫌悪がみゆきを襲ったのだ。
SOSは出ていたはずである。
みゆきが送ったSOSの先、それはどうやら私だった。それに気付かないとは何たる不覚……。
いや、気付いていたのかも知れない。私の田山への嫌悪感はみゆきにも分かっていたはずだ。それだけに暗黙にして通じるものがあるとみゆきは信じていたのかも知れない。
しかし私はといえば、今から思えばみゆきの私を見る目に怯えていた。私を求めるのとは違った怯えに満ちた視線を無意識にでも感じていながら、その瞳の奥を覗くのが怖かったのだ。その中に写っているのは田山だったのだろうか? いや、どこまで行っても先の見えない暗黒だったような気がしてならない。
今、私はみゆきの瞳の奥を覗こうとしている。
どこまで行っても続くであろう暗黒の世界がそこには広がっていた。少しでも動けば足場がないところに一人取り残された自分だったが、そこで思わず目を瞑ってしまうという、まったく意味のない行動をとっている。上下左右の感覚のないところで取り残されることほど恐ろしいことはない。無意識に身体が揺れてしまっていた。
知らず知らずのうちに暗黒に誘い込まれていた。
私をその暗黒の世界へと誘うのは一体誰なのだろう?
今私をとてつもない嫌悪感が襲っている。
――もしあの時、みゆきの視線に気付き、その意味が分かっていたならば、こんなことにはなっていなかっただろう――
こんなこと?
暗黒の世界で私の前を歩く男がいる。
じっとしていればいいものを、もがき苦しむように、あたりをキョロキョロ見渡している。そんなことをしても暗黒の世界では無駄なのだ。もがけばもがくほど自分が苦しむだけである。
案の定、男が大きく揺らめいた。どうやら足元のないところに差し掛かったようだ。
「ああああ……」
糸を引くように、それでいてハッキリと響き渡った断末魔の声が耳の奥に残った。男の最後である。
落ちていった男が田山であることは私にはすぐに分かった。こんな状況に陥ると一番先に耐えられなくなるであろう性格は最初から分かっていたような気がするからだ。いや、みゆきの瞳の奥だと思いながら見ていたこの光景、ひょっとして自分の瞳の奥ではないと思えたのは、それからすぐのことであった。
私がずっと感じていた願望を先に実践してみせたのがみゆきだったのだ。
私はこれからずっとみゆきを愛し続けていくだろう。それがどんな愛であっても、みゆきも私もそれを望まずにはいられないだろう。
彼女が田山からどのような羞恥なことを受けたのか分からない。彼女の中で完全に封印してしまっているからだ。そしてそれがどこまでも続く暗黒として、一生続いていくのかも知れない。しかもそのことを知った今、私の瞳の奥にも彼女と同じ暗黒の世界が広がっている。
自分がしようとして果たせなかったために封印しなければならない思いと、みゆきの苦痛を分かってやれず、彼女に暗黒の世界を作らせてしまったことへの自分自身への戒めとして……
( 完 )
作品名:短編集9(過去作品) 作家名:森本晃次