短編集9(過去作品)
その顔にはまったくぎこちなさが感じられず、私にとっての天使の微笑み、今までどれだけ想像してきたことか……。
「そう言ってくれて本当に嬉しい。これからもっともっと、君を好きになっていいんだね?」
「ええ」
彼女を抱いた腕にさらに力が入った。
空気の侵入を許すまいとするかのように、お互いの唇を求め合った。それがどれほどの時間だったか分からないが、とろけるような甘い時間だったことには違いない。
その日私は彼女と結ばれた。夢にまで見た瞬間だったが、心の底で、
「こんなものか」
と思ったのも事実である。
それは行為に対してのものであって、何よりもそのあとに私の腕枕の中で寄り添うように暖かい肌を摺り寄せてくるその感触は、心地よいものだった。
――この瞬間を味わいたいからかな?
これは私に限ったことではないかも知れない。きめ細かな肌が、未だ上気したように火照っている身体を感じることができる。
――もうこのオンナは俺のものだ――
と身体を重ねた瞬間に包まれる征服感から、そう感じる人もいるだろう。
しかし彼女の満足感に溢れて、安心したような寝顔を見ていると、そんな感じには到底なれるものではない。もし彼女に何か起きようものなら
――いつでも守ってあげたい――
という気持ちにさせられる。
そういえば以前変な噂を耳にしたことがあった。
私が嫌いなあの男、田山が女性に対してしつこく迫っていることがあると聞いたことがあったのだ。それも田山が嫌いな理由の一つだった。
今私の横で寝息を立てているみゆきの口から、寝言のように聞こえてきた名前、一瞬ではあったが、
「田山……」
と口元が動き、かすかに声も漏れてきたような気がした。はっきりとはしないが、限りなく確信に近いものを私は感じ取った。
その瞬間の何とも言えないような苦痛感をともなった表情、眉間に皺が寄り、搾り出すように唇を尖らせたように見える。
――彼女の意識する男というのは田山のこと?
私の頭は一瞬混乱した。だからどうだというわけではないが、みゆきの性格からして、決して好きでもない男を迎え入れるようなことはしないだろう。もし苦しんでいたとしても、それは人にも言わず、人知れず自分の中だけで葛藤を繰り返していたに違いない。
「田山がどうかしたの?」
気がつけば呟いていた。
もし、私の言葉に気がつかずスヤスヤと眠っていてくれるのであれば、それはそれで構わない。いや、眠っていてくれた方がと、今は思わずにはいられなかった。確かに気にはなるが、今夜のこの気分を田山ごときのことで壊されたくないと思うのも事実である。
「う〜〜ん」
私の今の気持ちのどちらが強いのだろう?
起きるとも起きないとも微妙な寝返りを打つみゆきを見ながら、心の中で、
「目を覚まさないでくれ」
と願っていた。
ここでみゆきが目を覚ませば、田山のことで私にどんなことを言うのかは、何となく想像がつく気がした。口元から漏れた「田山」という名前を口にした時の彼女の表情がすべてを物語っているような気がする。嫌悪にも似た表情は、もし私の夢の中にでも田山が出てきた時と同じ表情に違いない。
しかし私の思いは脆くも崩れ去った。
「私は夢を見ていたのかしら?」
はっきりと目が覚めない状態のみゆきは、半分開いた目で私を見つめながら話した。
「何か辛い夢でも見ていたのかい?」
敢えて田山の名前を出さないだけで、同じニュアンスを思わせる表現は、目が覚めるまでの瞬間、私の頭の中で考え抜いたことだった。
「ええ、確かにいやな夢だったわ」
思い出しながら、やはり嫌悪に満ちた顔でみゆきが話す。
その表情を横目に見ながら、内容を知りたいという気持ちと、知るのが怖いという臆病な気持ちとが交錯し、何とも言えない表情になっていることを自覚していた。ひょっとしてみゆきが内容を話してくれれば対応策について思い浮かぶこともあるかも知れないが、今は臆病の方が強い。
「とってもいやな夢、嫌いな人に言い寄られて、何とか逃れたいって夢かしら?」
やはりそうらしい。
「たぶん、その人は僕にとっても嫌いなタイプの人なんだろうね?」
「ええ、そうね。でも私はもう忘れたわ」
みゆきは目が覚めた瞬間、男の顔を忘れていたという。
「本当に忘れてしまったの?」
「私は元々顔を覚えるのは得意な方じゃないんだけど、こんなに完全に忘れてしまうなんて思いもしなかったわ」
彼女のその言葉は、男とただならぬ関係だったことを私に感じさせた。今私の頭の中を支配しているもの、それはさっきまでのめくるめく快感とは違い、憎悪を含んだもののような気がしてならない。
みゆきのいうことは本当であろう。
顔を見る限り、さっきまでちらほら見せていた不安気な雰囲気はまるでなく、さっぱりした表情は私を救ってくれるような気がした。それは最近私自身が鬱状態に陥った時、何となく感じていた後ろめたさに対する救いだったのだ。
私はみゆきを見るたび、後ろめたさのようなものがあった。それがどこから来るのか分からなかったが、今から思えばいつも私が目を向けた時慌てて視線をそらすようなところがあったが、よくよく考えると私が彼女に視線を向ける時は、いつも彼女の視線を感じてのことだったのだ。
――何かを訴えていた?
そんな思いが頭を巡る。
目を瞑ると浮かんでくる彼女の哀願の表情、何かを訴えていたというよりも、救いを求めていたような気もしてきた。それを分かってあげられなかった自分に対し、何となく嫌悪感があったに違いない。
鬱状態には確かに昔から陥りやすかった。しかしそれはいつも予感があって、急にまわりの色が黒っぽく感じられるような感じになり、長いとはいえ、終わりの時期も大体想像がついていた。
しかしみゆきに見つけられて陥る鬱状態はいつもいきなりだった。最初は気になる女性にソッポを向かれてそこから陥ったのだという楽観視のようなものだったが、彼女が見つめていた視線を思い出すと、どうやら違っていたことに気付く。みゆきが私に訴えようとしていたことを心の底で感じながら何もしてあげることのできない自分に腹が立ち、そのことのジレンマから鬱状態に陥ってしまったのだろう。
もちろんこんな感覚は初めてだった。
――これが恋というものなのかも?
私は今さらながら、そう感じていた。
みゆきがいとおしくなる一方、襲ってくるこの不安感は一体何なのだろう?
みゆきの表情に、先ほどまでの怯えはまったくなくなった。それどころか、さっぱりしたその表情からは、私に対する感謝の念を感じることができる。
「これから、私たちはずっと一緒ね」
みゆきがそう語りかけてきた時、私は固まってしまった。
その言葉を期待し、そう言わせるための今日という日だったはずなのに、その言葉を聞いた瞬間、ゾッとするような悪寒が身体を走りぬけた。
それを確かめるためという意味があったのか、私自身無意識に再度みゆきを抱きしめていた。
――みゆきを抱きたい――
作品名:短編集9(過去作品) 作家名:森本晃次