短編集9(過去作品)
玲子の素直な気持ちである。そして優一の存在が次第に頭の中から消えていくのを感じた。まったく自然にスーッとである。
数日後、玲子は正式に洋二からプロポーズされた。
洋二は写真家として、真剣に芸術に打ち込むことを決心していた。その覚悟は玲子と知り合う前からあったようで、投稿した中からいくつか入選していた。
元々才能があった洋二だったが、どこか一本筋が通っていなかったように思えた玲子だったが、プロポーズの時の真剣な姿を見て、玲子にはそれを断る理由がまったくなくなっていたのだ。
「僕が今まで忘れていた『感性』というものを、君から教えられた気がするんだ。何て言うのかな? 君の中に自分を見たような気がしてね」
「私を見て?」
「君の瞳の奥を見ていると、僕とはあまり似ていないんだけど、芸術家のような人が見えたんだよ。その人がまるで話しかけてくるようで、自分が忘れていた感性を思い出させてくれた」
そう言う洋二の瞳の奥には女性が写っていて、私に微笑みかけている。まるで祝福するかのようで、心底ホッとしたような表情にも見えた。
玲子は瞳に写った女性が洋二と同じ感性を持っていることを、その時初めて確信したのだった。
「洋二、今日皆で呑みに行くんだけど、お前も来いよ」
会社の終業時間、約三十分前に、同僚である山中から誘いを受けた桜井洋二の表情は、それこそ苦虫を噛み潰したようだった。
「おい、やめとけ、桜井を誘ったってどうせ来ないよ」
口を挟んだのは先輩だった。それを聞いて山中の表情に含み笑いがあったのを洋二は見逃さなかった……。
何ヶ月か前の洋二とはまったく違っていた。芸術家としてもそろそろ芽が出始めた洋二のことをまだ会社の同僚は知らなかった。まったく同じシチュエーションでも洋二にとっては気分がまったく違ったのだ。
玲子とはそれから半年後に結婚した。娘もすぐにできて順風満帆な結婚生活の始まりだった。
娘が大きくなるにつれ、次第に玲子に表情が似てきた。しかも話し口調は父親の洋二そっくりで、感性は父親ゆずりである。
芸術家を目指す娘だったが、父親と同じ写真の世界に足を踏み入れることはなく、油絵を嗜むようになっていた。
成長する娘を見ながら玲子は感じることがある。
――昔、この顔見たことがあるような気がするわ――
娘が決まって夕方に出かけていき、教会を描いているのを知ったのはそれからすぐだった。その時玲子は過去の懐かしい思い出がよみがえってきそうだったが、なぜか思い出せないでいた。玲子の記憶から、優一の記憶は希薄なものになってしまっていたのだ。
奇しくも洋二と初めてのあの日、パリへと向かう飛行機が事故にあったことを玲子は気にも留めていなかった。その中には受賞パーティーへ向かう優一が乗っていたことももちろん知る由もない。
娘を含めた幸せな生活は、人知れず散った優一の想いと感性によって築かれていることを、玲子は知らない……。
優一にとって、玲子は永遠の存在となったのだ……。
( 完 )
作品名:短編集9(過去作品) 作家名:森本晃次