短編集9(過去作品)
玲子を見つめる目も今までと少し違っていた。
「今日、一緒に夕食などいかかがですか?」
初めての優一からの誘いであった。
もちろん、願ったり叶ったりで断る理由もない。待ちわびていたその言葉に有頂天になってしまったが、初めて言われたにもかかわらず、新鮮ではあるがそれほどの胸の鼓動は感じない。初めて誘われたという気がしないのだ。
優一が連れて行ってくれたのは、海が見える静かなバーだった。洋二と何度かバーに行ったことはあるが、いつも薄暗い雰囲気のバーが多く、静かに飲むパターンだった。
しかし、風景を楽しみながら呑むお酒は男女を饒舌にさせるらしい。対岸に見える埋立地には高層マンションが立ち並び、その横には大きなアーチの橋が掛かっている。その下を船が行きかうのだが、まるで、ニューヨークにでも来たような錯覚に陥るのは、玲子だけではないだろう。
「こんなところがあるなんて」
「初めてなんですね、ここに来られるのは……。最近、私はこういうところで呑むことが多いんですよ。ここだと一人で呑んでいても不自然ではないですしね」
ああ、そうなんだ。
洋二と行くバーと明らかに雰囲気が違うのは分かっていたが、それも漠然としていた。どこが違うか玲子なりに考えていたが、今の優一の一言で何となく分かったような気がした。
店内を見渡せば確かに一人で来ている客も結構いる。オープンカフェのようなところもあり、テーブルの上にはランプのような照明がついていて、十分に明るい。そのため、一人できている人の中には本を読んでいる人もいるくらいで、バーとしてよりカフェとして利用している人も少なくないようだ。
玲子は優一が一人で来ている様子を想像してみた。目を瞑ると浮かんでくる光景に違和感はなく、今度は自分が一人で来ている光景を想像してみた。
「少し違和感があるかな?」
というよりも、座って本を読んでいる女性の雰囲気は浮かんでくるのだが、それが自分だとはどうしても思えない。服装の好みは明らかに玲子自身なのだが、肝心の顔にモザイクが掛かっていてはっきりとした表情には見えないのだ。
「やっぱり私には似合わないのかしら」
とそんなことを感じながら目を開けると、
「君はこういう店がよく似合うね」
ニコニコと玲子に微笑みかけながらの優一の言葉だった。その表情には安心感があり、優一の言うことはすべて本当のことに思えてくるから不思議だ。
それにしても、よく考えていることが分かったものだ。
ネオンサインの煌きが映っている優一の瞳を見つめながら、玲子はそう感じていた。
ゆっくりと優一の瞳の奥を覗いてみる。
玲子が男性の瞳の奥を覗くのは、洋二に続いて二人目だった。包容力の大きさを感じる洋二だったが、優一の場合はどうだろう?
優一も視線を逸らすことなく、お互いに瞳の奥を覗いている恰好になった。
あれ? 私の目がおかしいのかな?
玲子がそう感じたのも無理はない。確かに優一の瞳の奥が覗けているはずだった。しかしいくら覗いても、そこにあるのは真っ暗な闇であった。ずっと覗き込んでも、深さを感じることのない漆黒の闇、一瞬不安がよぎった。
今、どこにいるのだろう? 洋二の夢で見たように大きなススキの揺らめく広っぱの中に身を投じているのなら、いくら広くても見えているだけにそれほどのことは感じない。
しかし、闇というと話は別である。
一歩でも動いてそこに足場がなかったらと考えると、それだけで身体が不安定になり、どちらかに揺らめく錯覚を起こしてしまう。見えているからこそ人間の平衡感覚は働くのであって、まっくらな中にしばらくいれば、たぶん前後左右はおろか、上下の感覚すらなくなってくるだろうと玲子は感じている。
そう思うだけで、玲子は優一の「暗黒世界」に引き込まれていた。普通の暗闇であれば目が慣れてくれば自然とまわりが見えてくるものだが、しばらく見ているわりに、まったく光を感じない。それどころか、時間の感覚すらなくなってきていて、一体いつから優一の瞳の奥を覗いているか、それすらわからなくなってきている。
次第に恐怖が玲子を襲った。
目を逸らせば、それで恐怖からは少なくとも救われるはずであった。だが、すでに金縛りに遭っている玲子は瞳の奥の世界から逃れることは不可能になっていた。
おや?
そろそろ恐怖が全身を駆け巡ろうかとしたその時であった。光をすべて吸い込んでいたはずの瞳の奥に人の影らしきシルエットが浮かんでいる。さっきまでの暗闇に目が慣れてきているわりにそのシルエットが誰かすぐに分かった。
私?
目の前には自分しかいないので、それはそれで当たり前である。
だが、自分だとすぐに分かったことへの違和感がなぜか玲子を襲う。やっと優一の心の中に私がインプットされたということだろうか?
その瞬間、玲子にはもう一つの疑問が浮かんだ。確かに瞳に浮かんだその顔は私に酷似している。だが、浮かんできた疑問は時間が経つにつれ大きくなるばかりであった。
本当に私なの?
そう感じた玲子は、少なくともその顔の女性と、そのうちに絶対会える気がして仕方がなかった。それがいつなのかは分からなかったが……。
とにかく優一と一緒にいると時間を感じさせない。絵を描いている時に感じた最初の優一もそうであったが、瞳の奥を覗いた玲子には、その考えが決定的であると思えたのだ。
しかし逆を言えば、優一といる時間が急に希薄な感じにも思えてくるのだ。
時間を感じさせないということは後から感じることで、実際に接している時間はまるで夢心地であるにもかかわらず、一緒にいない時間に思い出そうとすると、なぜか思い出せない部分があるのも事実なのだ。
その日玲子は、初めて優一と身体を重ねた。
どちらからともなく、実に自然な展開に、
こういう展開でもなければ、たぶんこういうことにはならなかったわ
と思う玲子だった。
初めて玲子の手を握ってきた優一、それに応えるかのように握り返す玲子、少し暗くなったところで、玲子が唇を求める。二人にとってお互いに、かなり勇気がいったことだろう。それだけにこの展開なくして、その日に身体を重ねることなどなかったような気がする。
真っ暗な部屋の中に息遣いだけが聞こえる。もちろん初めてではない玲子だったが、この感覚は忘れていたものを思い出したのではない。玲子にとってはまったく初めての快感で、それだけにとても新鮮だった。
抑えても抑えても漏れてくる声に恥ずかしさを感じながら、部屋の中に想像以上の湿気を感じた。身体の奥から染み出してくるものに対し、切なさを感じながら自然と声が漏れるのだ。
クーラーの音がなぜか気になる。
シーツの擦れる音が最初は気になっていたが、切なさが深まっていくにしたがって、気になるのはクーラーの音だった。やがてキーンという耳鳴りが遠くで響いたかと思うと玲子の興奮は最高潮に達し、身体の奥を優一が貫いていた。
ここから先は二匹のケモノである。
襲いくる快感に懐かしさを感じ、今までに味わったことのある快感が頭を巡る。
作品名:短編集9(過去作品) 作家名:森本晃次