短編集9(過去作品)
男は気にならないフリをしていたが、チラチラと横目で見ているようで、明らかに意識していた。玲子もなにぶん無意識な行動なので、声を掛けることもない。
「あの、何か?」
しばらく続いた不自然な雰囲気をぶち破ったのは、男のその一言だった。
「あ、いえ、いつもここで絵を描いていらっしゃるんですか?」
思わず答えたが、緊張してしまってそれだけ答えるのがやっとだった。玲子にしては珍しいことで、我ながら初々しさを感じてしまい恥ずかしささえあった。
「ええ、最近この教会を画材にしたいと思いましてね。最近ここによくいますね」
「時間はやはり今ぐらいですか?」
「ええ、夕日が当たる教会が好きでして、ただ、日一日と微妙に太陽の角度が違うので、そのあたりは微調整をしながらですが」
「夕日がお好きなんですか?」
「ええ、赤い夕日もさることながら、強い日差しも嫌いではありません。小さい頃の思い出も詰まっているような気がしましてね」
玲子も夕日には思い入れのようなものがある。午後五時になると、どこからともなく流れてくる「夕焼け小焼け」のメロディ、それを聞くとお腹が減ってきて、本当に一日が終わってしまうかのような錯覚さえ覚えるのだった。
日差し避けのチューリップハットの下には、少し日焼けした顔があった。ほんのりと髭が生えていていかにも絵描きを思わせ、ただ目だけは帽子の影になってよく見えないが、さぞかし物事に打ち込んでいる時の鋭い目をしていることだろう。だが、玲子にはその奥にある優しそうな目しか思い浮かんでこなかった。
キャンバスには鉛筆による下絵は描かれていて、やっと最近絵の具が入ったのか、少しだけ色のある部分がある。距離がちょうどいいのか鉛筆描きだけでも十分立体感が伝わってくる。
洋二がカメラをやっていることを玲子は知らなかった。
会話の端々に出てくる教養を尊敬することにより、今まで触れたことのない芸術家の雰囲気は何となく分かっていたつもりである。
優一にも同じ感性を感じた。
目の前でキャンバスが広がり、夕日を受ける教会がその上に映し出されようとしているのだ。目が慣れてきて、ようやく優一の表情を横から覗くことができた。最初の想像通りの鋭い眼光が、キャンバスと目の前に広がる教会を行ったり来たりしているのが分かる。その視線に釘付けになりながら、時折覗くと少しずつであるが、微妙な色彩がまるで魂が乗り移るかのようにキャンバスに塗りこまれていく。
しばし時間を忘れて眺めていたが、その時間が長かったのか短かったのか分からない。短かったと感じると、痺れかかっているような足の疲れが何なのかと思うし、逆に長かったと感じると、そのわりに西日が沈むまでなので本来なら時間が経っているはずはなかった。
「さてと……」
優一はじっと見つめられていることなどお構いなしに、さっさとキャンバスを畳み始めた。それを見た玲子は、一瞬我に返ったが、チラッとこちらを見た優一の顔をまた凝視することで、固まってしまった。
初めて正面切って見つめられたその瞳は何とも優しく、先ほどのキャンバスに注がれた鋭い眼光と同じ人なのかと見られた瞬間に感じていた。
固まっている間にもテキパキと片付けが終わった優一は、玲子を尻目にそのまま踵を返してそこから立ち去ろうとしていた。
「あの……」
今までの玲子なら、何も言わすにその場をやり過ごしていたはずだ。その証拠に声にはなったが、そこから先がすぐには出てこない。
「はい。何か?」
首だけこちらに向け、冷静ではあるが、優しそうに答える。
「明日もここで?」
そこまで言うのがやっとだったが、
「ええ、ここにいますよ。同じ時間にね」
考えてみれば先ほどの会話で分かりきった話だったのだが、はっきりともう一度聞いてみたくなった。搾り出すような口調だったが、それが聞きたかったのだ。
翌日から玲子の夕方は決まってしまった。最初こそ河原だけのことだったが、次第に一緒にいる時間が長くなっていった。
「優一さんが、好きなんだわ」
玲子がそう感じたのは、やはり自分の捜し求める感性を、優一に見たからであろう。
優一は何事にも優しかった。玲子を気遣うことも実に自然で、相手にそれを悟らせまいとするさりげなさが彼の最大の魅力なのかも知れない。それでいてしっかり自分自身を持っていて、さぞかし自分に自信があるのだろう。そんな優一に恋心を抱いている玲子は、自分がいとおしくてたまらない。
それからの玲子の生活は一変していた。
生活のリズム自体、それほど変化はないのだが、やはり気の持ちようでこれほど違うものかと思えるほど、時間の感覚がかなり変わってきた。
夕方が待ち遠しいなど、最近考えたこともなかった。毎日のマンネリ化した生活の中で唯一変化があるとすれば、仕事をしている時だったのだ。
一旦会社を出てしまうと、途中コンビニで買い物するくらいで、家に帰ればこれといってすることのない毎日だった。
その当時、すでに洋二とは知り合っていたが、知り合ってすぐの洋二がプレイボーイだということは分かったが、洋二もなかなか自分を出そうとせず、恋愛対象とは違った感じがあったのだ。連絡も向こうからしてくるだけで、玲子からすることもなかった。もし、自分から連絡しようものなら、気まずい雰囲気になってしまうと考えていた。
玲子にとって洋二は普通のボーイフレンドの一人でしかなかったのだ。
優一は玲子が自分を好きなことを知ってはいただろう。
夕方ひと時のデート、日が沈むまでの彼の横顔をじっと見詰めるだけで会話のないデート、それでも玲子は構わなかった。
夕日が沈み、途中まで一緒に帰るのも玲子にとってはこの上ない楽しみだった。
そこから先の進展がないまま月日が流れていくことに、玲子自身たまりつつあるストレスをそれほど気にしていなかった。
確かに一緒にいる時はまるで雲の上にいるような心地よさではあるが、一旦途中の道で別れてしまうと、そこに待っているのはすっかり夜の帳が下りた帰り道だった。漆黒の闇の中、街灯だけが寂しく道を照らしている。このあたりは閑静な住宅街ということもあり、寂しさもひとしおであった。
「今日も、それから……が、なかったわ」
溜息とともに声が無常にも漏れていた。確かに一緒にいる時でも期待がないわけではない。しかしその場の雰囲気は期待よりも、夕日に照らされている時間が、もっと長く続かないだろうかという思いの方が強く、
「これが人を好きになるってことなのね」
と自らをなだめている自分に気付く。
しかし、さすがに別れた後に襲ってくる寂しさは如何ともし難く、後悔が襲ってくるのを自分でどうすることもできない。そんな日々が続く中、いよいよ優一の絵の完成が近づいてきた。
「あと、数日で完成だな」
「ええ、楽しみだわ」
ほぼ完成していて、数日もいらないような気がした玲子だったが、性格的に完璧でなければ気がすまない人であることは分かっているので、素直に頭を縦に振っていた。
そういえば、優一が創作中に声を出すなど今までになかったことだった。よほど完成に向けて自信があるのに違いない。
優一の鋭い表情の中に、安堵感のようなものを感じた。
作品名:短編集9(過去作品) 作家名:森本晃次