短編集8(過去作品)
三イニングを終了して、いよいよ中盤。二周り目のクリーンアップを迎えた。
「ここは気をつけていけよ」
キャッチャーが立ち上がって忠告に来てくれる。
「ああ」
笑ってそう答えた。
いつもであれば口を真一文字に結んで神妙に忠告を聞くのだが、今日は調子がいい。キャッチャーに対して笑って返そうものなら、いつもだと、
「ふざけてなくて、しっかり頼むぜ」
の一言が飛んでくるはずである。
しかし、逆に余裕のある笑顔を浮かべるだけのキャッチャーを見ていると、それだけ自分の球に力があるのかと思い、自信に繋がる。受けているキャッチャーが一番そのことを分かっているはずだからだ。
「とりあえず、思い切り行こう」
そう言って踵を返し戻っていく。どうやら、私の自信を確認に来たような気がして仕方がない。その証拠にミットはど真ん中に構えたまま、コーナーを要求したりする素振りもない。
「バッターアウト!」
さすがにこのイニングの三人には集中していたのか、スタンドを見ることなく無事スリーアウトの声とともに、マウンドを下りることができた。ベンチへの帰り際、ちらりとスタンドを見たが、やはりそこに優美子の姿を見ることはなかった。
「さあ、点を入れるぞ」
今まで静かめだったベンチに活気が戻ってきた。
三人で切って取ったことが勢いを与えたのかも知れない。しかも三者連続三振とあっては、いやが上にも盛り上がるというものだ。
私の得意球は何と言ってもストレートである。変化球はカウントを稼ぐ時に少し使う程度で、一球目と決め球は必ずストレートと決めている。したがって球に威力がない時は、惨めなもので、いい時と悪い時がはっきりしている。
悪い時であっても、マウンドに上がるまで分からない時がある。ブルペンで投げている時調子がいいと思っても、マウンドに上がっていざ投げてみれば、ボールがどこに行くか分からない。
ランナーが溜まって、ストライクを投げようとボールを置きに行くと、狙い打たれる。置きに行ったボールは、私の場合まるでピンポン玉のようになり、長打長打の連続で、五点六点すぐに取られている。
気が付けばマウンド上で放心状態。体にへばりつく汗を感じることなくマウンドを後にするのだが、おかしなもので、すぐに平常心に戻っている。
――たかが草野球――
まさかそんな考えなどないが、ただ、冷静になって反省するだけであった。
「カッキ〜ン」
気が付けば味方の選手の連打で、塁は埋まっていた。
「楽にしてやるぞ」
ベンチは押せ押せムードである。
私が始めて優美子と出会ったのは、とあるスナックであった。
名前を「パピヨン」といい、それだけでも妖艶な雰囲気の名前である。
元々、会社の先輩から連れてきてもらったのが最初だった。その日、部内で呑み会があり、翌日も仕事ということで一次会のみの会だった。午後九時半にはお開きとなったが、まだ呑み足りない者はそれぞれ個別に行動することとなった。カラオケに行く組もあったのだが、その日はなぜかカラオケという気分になれず一人で帰ろうとしたところを、先輩に声を掛けられた。
その人は同じ方向に帰る人だったので、別に違和感なくついていったが、行ってみると店内にはジャズが流れているような洒落た店で、スナックというよりバーの雰囲気だった。
すっかり私は店の雰囲気が気に入ってしまった。
気さくに話しかけてくれるママさんは私の気持ちが分かったのか、
「これからもちょくちょく来てくださいよ」
とニコニコしながら応えてくれた。
赤い露出の大きめなドレスはチャイナドレスを思わせ、ほのかな香りにお香の匂いを感じさせてくれる。
店の雰囲気は西洋風と南米のトロピカルさを兼ね備えたような作りなのだが、ママのドレスはそのどちらでもない雰囲気を醸し出し、程よい酔いも伴って神秘さに魅了させられていた。
ママの知識はさすがに豊かそうだ。
先輩との話を聞いていたが、どちらかというと一つの話をひっぱるのは苦手だが、その代わり豊富な話題で相手を飽きさせないタイプの先輩の話にキチンと相槌を打っている。――さすがだな――
相槌を打つだけではなく、自分からもしっかり話題提供しているママを見ていてそう感じた。黙って二人の話を聞いているだけで、知識が増えていく気になるし、時間を感じさせない息もつかせぬ会話といったところである。
ある程度ほろ酔い気分になりかけた時間帯であった。
私がふっと入り口の方を向いた時である。こちらを見つめている女性と目が合ってしまった。
彼女は一瞬驚いたような表情になり、視線をしばらく逸らせないでいたが、たぶん同じ状況だったのか、私も見つめる彼女の視線に金縛りにあったように首を動かすことも、ままならなかった。
私の視線に気が付いたのか、
「いらっしゃい、今日は一人?」
ママが入り口に立っている女性に声を掛ける。
金縛りの解けた彼女は他の席に見向きもせず、カウンターの我々の奥の席に腰掛けた。どうやら指定席のようで、座る前からママは正面に構えておしぼりを手に待っていた。
「優美子ちゃん、最近一人が多いわね」
「そうかしら? 友達と時間が合わないからかも知れないわ」
ゆっくりとおしぼりで手を拭きながら答えていた。私の目は入り口から釘付けになってしまった彼女の行動をしっかりと捉えていた。彼女もそれが分かっているのか、意識しないふりでキョロキョロこちらを気にしているようだ。
「昨日、フェニックス残念だったわね」
「ええ、そうなの。あそこまで行ったのにね」
フェニックスというのは、プロ野球チームの熊本フェニックスのことである。
「確か優美子ちゃんは熊本出身だっけ?」
「ええ、だから野球はフェニックスなの」
最近確かに女性のプロ野球ファンは増えている。しかしそれも一部の人気チームだけのファンでいまだに人気のないリーグのチームはなかなかそうも行かない。人気選手がいればその選手が好きだからということもあるのだろうが、フェニックスにそんな選手はいない。
となれば後は彼女のような「ご当地チーム」ということになる。彼女の口からフェニックスという言葉が出た時、熊本出身であることは私の中に直感として浮かんだ。
そういえばアクセントがそれっぽい。今まで九州の女性と話したことはなく、関西系の女性が多かった。おしとやかな感じを受けたのはそのせいかも知れない。
「フェニックスも渋いチームですね」
思わず横から話しかけてしまった。私もフェニックスは嫌いなチームではない。
どちらかというと個性的な選手が多く、玄人好みのある程度実力のあるチームである。いつも優勝争いに顔を出しているが、なかなか最近は優勝までには行き着かない。ベテランが多いためか、息切れではないかというのが、巷の噂でもある。
「あなたも野球が好きなんですか?」
優美子が興味津々といった目でこちらを覗き見る。何に対してでも興味を持つとすぐに顔に出るタイプなのか、口をかすかに尖らせ、瞼を瞬かせながらの潤んだ瞳の奥には、好奇心がはっきりと見える気がした。
「ええ、実際に私も草野球チームに入ってますからね」
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次