短編集8(過去作品)
草野球ブルース
草野球ブルース
「ストライク、バッターアウト!」
派手なアクションの球審である。
まわりからは、拍手が巻き起こり、バッターは悔しさから、バットの先を地面に叩きつけていた。
ささやかな盛り上がりである。
何かをするというわけでもなく、気が付けば近くの運動公園にやってきた私は、そこで家族の声援を受けながら楽しそうにプレーしている草野球の試合に出くわしたのだ。
小さな子供を見えるところで遊ばせながら、強い日差しを日傘で防ぎながらタオルハンカチを片手に、のんびりムードで夫のプレーを見つめている女性が多い。
もちろん、近所の草野球ファンの存在も忘れてはならず、学生風の人から散歩中の老人まで、これほど草野球に人が集まるのかと、今さらながら感心させられた。
バックネット裏は高位置で、どちらかというと向かって左側から見ることが多い私は、スタンドになっているところの五段目くらいの位置に腰掛けた。
実は私も草野球ファンである。
というよりも、数年前は見られる方にいたのだ。
私の目はどうしてもマウンドの上に集中する。したがって野球を見る位置もすべてがマウンド中心で、ピッチャーのフォームをいろいろな角度から見る方だった。
野球をやっている頃は、そのマウンドからまわりを見ていた。
人より一段高いところから見下ろす快感、これは上がったものでないと分からない。しかし逆に一番まわりから注目される場所であることには違いない。何しろピッチャーが投げなければ野球というスポーツは成立しないからだ。
マウンドというところからキャッチャーやバッターを見ると、ものすごく近く感じることがある。そういう時は肩が軽い状態なのだが、それが結果として必ずしもいい方に現れないのが野球の面白いところで、自分で調子がいいと思い込んでいるがための油断があったり、得てして腕のスピードに握力がついていかず、制球力がままならないことが起こりうるのだ。
マウンドに登っている時、見られているという感覚はそれほどなかった。確かに自分が中心だという思いはあって、ベンチなどから相手ピッチャーを見ている時は、その行動の一挙手一同に注目するし、早くそこに登りたいとまで思うが、実際に上がると途端に無表情の無感情になってしまう。
別に闘争心がなくなるわけではない。逆にその気持ちを抑えようとしているのかも知れないとも思うが、それも少し違う。
とにかくマウンドという場所には、言い知れぬ魔力のようなものがあるのだ。
ベンチからマウンドを見つめる目、私のその目は他の選手と違った、敵であっても憧れを持ってみているに違いない。しかし一度その上に上るとまったく違う景色になっていて、それ以上に意識も見ている側に感じた見られる意識などまったくないのである。
私はある日の試合を思い出していた。
「ようし、しまっていこう」
監督のその声に押し出されるように立ち上がった皆と一緒にベンチを出て、ゆっくりとマウンドへと向かった。
あの日も今日のように暑い日だった。野球場の裏にある草むらからセミの声がベンチ裏まで聞こえてくるくらいの暑さだった。
風はあるのだが、却って生暖かくきついだけである。
こんな日はセミの声以外はどんな音でも耳鳴りのようにしか聞こえない気がしたが、勢いよく体を使って投げ出されたボールがミットを叩く音だけが、私にとっての「音」だったのだ。
「カッキーン」
ファールボールがバックネットを揺らす。その時のバットの放った金属音すら私には耳鳴りとしてしか聞こえないのはなぜだったのだろう?
いつもはそんなことなかった。どんなに暑い時でも、音は音としての認識できていたはずなのに、ミットを叩くボールの音以外は、すべてが虚構の世界であった。
――まるで寝ぼけているみたいだ――
マウンドから立ち上がる、もやっとした湿気を含んだ空気が見えるような気がしていた。いつもであれば、回が押し詰まって心身ともにバテてきた後半感じることがあった感覚である。それもしょっちゅうではなく、たまにである。
キャッチャーミットが大きく見える。
しかしそのわりに距離を遠く感じるのはなぜだろう? バッターを小さく感じ、ミットだけがやたら大きいのだ。
こんなことは初めてだった。
力一杯投げても、それが本当に自分の納得の行くボールになっているかどうか、不安である。それを解消してくれるのがミットの音であり、音を聞いている限りでは、ボールに力はある。
一回、二回、三回と無難にイニングをこなしていく。相手チームはいまだノーヒット、フォアボールとエラーで出したランナーがいるだけだ。草野球とすれば立派なものだろう。
しかし相手投手もさるもので、こちらも一点がなかなか遠い。いわゆる緊迫した投手戦なのだが、私がその主役の一端を担っているそのはずなのに、どうにもピンと来ないのである。
緊張感がどうも湧いてこない。
マウンドから見える光景といえば、キャッチャー、バッター、アンパイアはもちろんのこと、時々バックネット裏のスタンドを見ていた。
いつもそこには、優美子がいてくれた。
彼女とは野球好きということで知り合ったのだが、さすが好きだということだけあって私の試合の時には、必ず見に来てくれている。
手を振ったりといった露骨なことはないが、マウンドにいてもその視線を痛いほどに感じ、スタンドにいる彼女とアイコンタクトをとることで、集中力を維持したりしていた。
一緒にグラウンドに来ることはなかった。朝の試合が多いこともあって、一人暮らしの彼女は朝が忙しいのだ。
掃除、洗濯はもちろんのこと、お手製のお弁当持参で来ることが多いため、試合開始には間に合うのだが、集合時間には間に合わない。
気分を高揚させてマウンドに上がってスタンドを見ると、そこにはいつも優美子が座っているという次第だ。
だが、その日は一向に彼女の姿が現れない。二回、三回とイニングを重ねても、スタンドに現れる彼女を見ることができなかった。
マウンドに上がっていつもと雰囲気が違うのは、きっとそのせいに違いない。
「ストラ〜イク」
審判の声が大きく響く。
その日の私はいつになく調子がいい。
肩が軽いせいか、投げていてボールにキレを感じる。
いつもであれば、そんな時は制球力がつかず、そちらの方で苦労するのだが、その日はしっかり指の抑えが利いていた。それだけにバッターの手前でのボールの伸びはバッターボックスに立った人間でないと分からないだろう。
イニングを重ねるごとにマウンドで快感を覚えていた。自分に酔っていたといっても過言ではない。
しかし、酔えば酔うほどスタンドが気になるもので、視線を上に上げることが頻繁になってきた。
「おい博一、どこ見てんだよ」
何も知らないチームメイトから、軽い口調でそう言われる。
チームメイトには、実は優美子のことは内緒だった。別に隠すことはないと優美子からも言われていたが、自分から公表する気にもなれなくて、チームメイト以外でも私と優美子の関係を知っている人はほとんどいない。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次