短編集8(過去作品)
小学生の頃はどちらかというと身体が弱い方で、中学に入ってからバスケットボール部に所属することでかなり体力はついたはずである。その頃に海に行っていれば、発熱をすることなく帰って来れた気がする。それまでの海に対しての自分の嫌なイメージと身体に染み付いた辛さの呪縛から、もっと早く逃れることができたに違いない。
私にはそれが口惜しい。
じゃあ、私にとって海のイメージとはどういうものなのだろう。
発熱ということさえ思い出さなければ、潮の香りさえ思い出さなければ、海はとても爽やかなイメージを与えてくれる。
あくまでも誇大妄想かも知れない。テレビでよく写っている沖縄の海を見ているから思うことだろうが、透き通るようなコバルトブルーの海、水平線を境に広がる、雲ひとつない、どこまで行っても変わることのない空の青さである。
海に対してのイメージ、それは「青」である。そしてそれは私が一番好きな色でもあった。
佐和子と初めて旅行したあの時、二年前のあの時、私はある程度の覚悟を決めていた。なぜ佐和子がここを選んだのか私に分からなかったが、死のうと決意していたことだけははっきりと思い出すことができる。
理由は今さらどうでもよい。というよりもはっきりとした理由などなかった。しいて言えばお互いを知りすぎたということかも知れない。だが佐和子は違っていた。
「信じてもらえないかも知れないけど、記憶の中にいる私とダブらせている人は、私自身なの。だから私はあなたを昔から知っているし、ずっと見てきたのを思い出したの」
「それは、僕という人間を意識してなの?」
「そう、私はあなたをずっと見てきた。私はあなたと過ごす時間が違うの。時間が『重たい』って言ったらいいのかしら? きっとあなたが私に追いつくまでずっと待っていたに違いないわ」
「そういえば、あの時のあの言葉」
私は佐和子の前で反芻してみた。
「潮を含んだ砂って、重いのかしら?」
私のつぶやきのような一人言を聞きながら、佐和子はいちいち頷いていた。
「私はあなたにお別れを言わなければならないの。でも私はちっとも悲しくないわ。ずっと待ち望んでいたことが叶ったんですもの……」
確かに彼女の表情はサバサバしていた。どちらかというと気持ちが重いのは私の方だった。
「あなたは死のうなんて思わないでね。私は死ぬわけじゃないのよ。あなたをこれからもずっと見守っていくわ」
その時、私も心の中の釈然としない部分に初めて気がついた。
――死のうとしていたのか――
もし彼女が注意してくれなかったら、自分でも気がつかないまま死を選んでいたかも知れない。遺書も何もなく、どこからか私の死体が出てきて「変死」と報道されるだろう。いや発見されればまだしも、発見されなければ、私がいなくなったことをいつ誰が気がついてくれるだろう。そっちの方が私には気になってしまっていた。
それから二日間、海の近くのホテルでずっと一緒だった。それこそ昼夜を問わず、お互いの欲望をぶつけ合い、「本能」の赴くままにである。
不安だと言って私にしがみついてきたあの時、佐和子にとって「決まっていた覚悟」が揺らいだ唯一の時だったのかも知れない。私の「本能」の赴くままという気持ちを察することによって「覚悟」が“決まった”のだろう。
今度は私が佐和子に教えられる番だった。この二日間、「本能」の赴くままの行動で、私は死ぬということが頭から離れてしまった。なぜそんなことを思ったかすら、頭の中から消え失せていたのだ。
――小学生の頃に見た佐和子の目――
あの時の戒めの目は私に死を思いとどまらせる目だったような気がする。やはり彼女はあの時から今の私に会う気持ちが強かったに違いない。
しかしなぜあの時の私に会ったのだろう? あの時私は一体何を考えていたか、必死で思い出そうとしていた。
砂場で遊ぶことが普通になっていたあの頃、砂場以外の場所で遊ぶことを考えられなくなっていた時期だった。別に他の場所で遊ぶことに抵抗があったわけではないが、砂に対する執着は人並み以上で、それを自覚したのがあの時だったような気がする。
もしあの時、砂に対して意識しなければ、本当に私は砂場から抜けることができなくなっていたかも知れない。無意識なだけに恐ろしい。まるで、今“死”というものを考えていたように……。
「潮を含んだ砂って重いのかしら?」
あの時の佐和子の言葉、子供だから分からないのかな、と感じたあの言葉。今私には分かったような気がした。子供だから分からなかったのではない。もし佐和子と再会しなければ、今でも言葉の意味は分からなかったであろう。それにまったく同じ状況で、他の人が私と同じ立場だとして、果たして分かったかどうか、はなはだ疑問である。
――私だから――
そう思わずにはいられない。
――喫茶店での出会い、あれは偶然ではないのだ――
彼女は私と再会するタイミングを分かっていた。逆に考えれば、私中心に回っていたのかも知れない。これは私だけに限ったことではないのかも知れない。他の人にも“佐和子”のような存在の人がいて、お互い気がつかないまま、人生をひたすら生きているのかも知れない。
そう考えれば幸せなのだろう。前向きに考えることにした。
私は二日間、佐和子と一緒に過ごした街の駅に降り立った。佐和子が別れる時、最後にくれたものを持って、またここに戻ってきたのである。
彼女と最後に別れた海岸で私は打ち寄せる波を見ながら考えている。
――打ち寄せる波――
それは彼女に攻められた時に感じた私の中での快感、身体に重みを感じ、まるで時が止まったかのような錯覚を覚える瞬間だった。
佐和子が私に対し、海のイメージがあると言っていた意味がやっと分かった気がする。佐和子によって開拓された私の身体、それが私を海のイメージに戻してくれたのかも知れない。
私は海に向かって佐和子にもらったものを置いた。今まで正確に時を刻んだことのない砂時計……。いつも表示よりも時間が掛かっていた砂時計。
砂が“重い”のだ、今まで砂時計の中にあった砂は重いのだ。今も重いかの知れない。しかし、それに気がついた私には逆にたとえ砂が重くても、
――佐和子と私の砂は、同じ時しか刻まない――
と思うようになっていた。
そう、重かろうが軽かろうが、砂時計の砂は同じ時しか刻まないのだ。
砂がすべて落ちるはずの五分後、私は一体どんな人間になっているだろう。
そう思いながら踵を返し歩き始めた。
いや、きっとまったく変わっていないに違いない……。
( 完 )
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次