短編集8(過去作品)
「理性」という言葉があるが、「本能」に打ち勝つための葛藤がこの「理性」によって起こっていることは自分でも分かっている。
しかし、頭の中で「理性」を「善」、「本能」を「悪」と割り切れるものではない。また割り切っていいものかどうかも怪しいものだ。もし、佐和子の心の中でこのような葛藤が起こっているのだとすれば、私は一体どういう態度をとればいいのだろう?
――じゃあ、私はどうなんだ――
自問自答を繰り返す。「本能」自体が悪いなどと今まで感じたことはなかった。どちらかというと、「本能」があるからこそ人間も動物なのだ。ただ、本来人間には他の動物にはない「理性」というものを持っているから、そこでの葛藤が生まれるのだ、という考えを常々持っている。
「本能」のままに赴くというのも私は大切なことだと感じている。
私は一度、佐和子とこのことについて話したことがあった。元々身体目的ではないかという勘違いが彼女にあるのではと危惧したことから始まったのだが、話してみると佐和子にも共鳴できるところがあるらしく、それでも、彼女には彼女の独自の考えがあったりして、議論を戦わせることになった。
しかしそれで私は満足だった。お互いの誤解も解け、一歩近づけた気になったのは佐和子も同じだったであろう。話をしなければ、言葉で伝えなければ、伝わらない気持ちだってあるのだということを、今さらながらに知ったのだった。
それでも、佐和子には何か釈然としないものが残っているようだった。
不安というものは一つ解決すれば、新たに出てくるもののようで、まるで小学生の頃砂場でやった「山崩し」を思い出していた。
佐和子の性格を私にはどうしても掴むことができなかった。
話に夢中な時は必死になる姿と、それほどでもない時などどこか抜け殻のようになり、心ここにあらずといった雰囲気の時もあった。
そういえば、何度か感じることがあった。話をしていて頷いているのだが、まるで抜け殻を相手にしているような歯ごたえのなさを……。そんな時の佐和子にどうかすると小学生時代に出会った「おねえさん」を見ているような気がしてくるのである。
どこか頼りなく、それでいて大人の雰囲気を醸し出しているような感じであるが、だからといってそれを佐和子に問いただす勇気もない。
未来のことが分かるという、戯言のようなことが口から出るのは、たいていこの時である。
一度だけではなかった。何度となく私に未来が分かると言うのだが、まったく説得力などない。
それもそうである。彼女自身相手を納得させようなどという気概もなく、ただ寝言のように繰り返しているだけで、そこに熱意は感じられない。普段、普通に話していて自分の意見を言う時の説得力が強いだけに、まさしく未来のことが分かるという時の佐和子のセリフは抜け殻そのものである。
もちろん、そんなあやふやな話を私が信じるはずはない。しかし彼女があまりにも頻繁に抜け殻状態になっては話すのを見ていると、気持ち悪くなってしまうのも事実で、抱く由縁のない不安を曲がりなりにも抱くようになっていった。
「一体何が不安なんだい? あまり君が不安がってると、僕まで変な気分になってしまうよ」
あまりにも気になったので、たまらず聞いてしまったことがあった。
「ごめんなさい。言葉では何とも言い表せないものなの。それに今は私の中でも漠然としていて、固まってないの」
「いつかは固まるということ?」
「そうかも知れないわ。でも、固まるのが早いか、不安が的中するのが早いか、それを考えるとまた不安になってしまうの」
人間、不安に思うことがあれば、とことんまで思い詰めるもののようだ。かくゆう私もそうで、学生時代などは自分だけがそういう思いを抱いていると思い込んでいて、友人といろいろ話すようになり同じような思いを抱いていることを知って、安心したものだ。
私に話しをして落ち着いたのか、最初の取り乱したような態度は徐々に収まっていき、まだ荒い息遣いではあったが、興奮は冷めていくのがはっきりと分かった。
「私、海が好きなの」
唐突な発言だったが口調は緩やかで、完全に落ち着いている。
どうやら、海に何か思い出でもあるのか、少し上を向き加減な視線は、明らかに遠くを見つめている。
「僕は、あまり好きじゃないね」
「どうしてなの?」
「小学校の頃、親が海を好きだったこともあって、よく連れて行ってくれてたんだけど、元々潮風のあのベタベタした感覚が苦手なのか、次の日になると、必ずといっていいほど熱を出して学校を休んでいた思い出しかないんだ。今でも潮風の匂いを嗅いだだけで、熱が出てきそうになるよ」
「お前は身体が弱いなぁ」
そう言って親から言われていたが、なぜなのか自分でも分からない。確かに潮風の影響に違いないのだ。
「じゃあ、海にはあまりいい思い出はないのね」
私を見つめる佐和子は目を細め、いかにも寂しそうにそう言った。
そう言われてみると、確かにそうなのだが、何かそれ以外にもあったような気がしてきた。必死で思い出そうとする私を、佐和子の目が優しく見つめてくれている。
「そういえば、あれはどこの海だったかな?」
私は「おねえさん」を思い出した。あれほど最初佐和子の中に「おねえさん」のイメージを抱いていたのに、佐和子と一つになり、彼女のすべてを知ったと思った瞬間から、佐和子の中に抱いていた「おねえさん」のイメージはなくなり、「おねえさん」の存在すら頭の中に封印してしまっていた。
「砂浜だったのよね」
「ああ、確かに海といえば砂浜のイメージしか湧いてこない。しかも暑い時のイメージではなく、重たく冷たい砂、そしてまわりには誰もおらず、寂しい海……」
無意識に首を捻るような感じを受け、さぞかし私の目は虚空を眺めていたことだろう。そんな私を見つめる佐和子の表情は、やはり優しさに満ちていた。
「でも、あなたには海のイメージがあるわ。躍動感を感じるもの」
――海のイメージって――
私は頭の中で、海と山をイメージしてみた。
まず色を思い浮かべたが、山というとどうしても夏の緑である。これでもアウトドアが好きな私は、夏になると仲間数名と、山にキャンプを張りに行く。緑の葉が幾重にも覆いかぶさったところでは、暑ささえも忘れさせてくれる。
山で何よりも嬉しいのは、空気の綺麗なことだろうか。特に緑がどんどん失われつつある都会の雑踏では感じることのできない綺麗な空気、日頃のストレスも忘れ、リフレッシュできる山は最高だ。
私たちがよく行くキャンプ地には大きな湖があり、綺麗な空気をはぐくむ環境は整っている。しかも緑の植物は炭酸ガスを吸って、綺麗な酸素を吐き出してくれるので、それが空気の綺麗な要因であると、はっきりとした理由もある。
それに比べて海のイメージとはどうであろうか。
小学生の頃に行ってから、自分では決して行こうとしなかった海、そこに思い出などあろうはずもなく、私の頭の中での海はその時から時間が止まっているのだ。
いや、逆に思い出すのは辛いイメージばかりで、本当なら楽しい思い出を後から作ればよかったのかも知れない。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次