短編集8(過去作品)
そう、あの頃の私とは違うのだ。
高校も進学校に進み、大学もそれなりの大学をそれなりの成績で卒業し、曲がりなりにも大企業の門を叩くことができた。
ひとえに自分だけの努力の賜物だとまでは言わないが、孤独との戦いを制することによって勝ち取った成功だと思うようになっていた。小学生時代の私からは考えられないことであり、友達がいうのも決してまんざらでもないのだ。
「すみません、変なこと言っちゃって。小学校の頃に見かけた女性にそっくりだったもので、でも考えたら、年齢が違いすぎますよね」
そう言って笑う私に、彼女は苦笑を返してきた。
「そうですね。でもその人ってそんなに私に似てるんですか?」
「似てるって言い方は変かも知れませんが、私の中にあるイメージでそう思っただけですね」
「実際にお顔を見たんですか?」
「いいえ、はっきりとは見ていないと思うんですよ。どうしてそう思うんですか?」
彼女の言葉一言一言が私には重たく感じる。そのためいちいち聞き返してみたくなってしまうのである。
「たぶんそうだと思いました。はっきり見ていないから、いろいろなイメージが湧いてきて、皆同じように見えてくるんじゃないですか? だから私にも同じイメージを抱いた……」
確かにそれは言えている。そういえば、今までも同じような思いをして何度すれ違った女性の後姿を追いかけたことか。今思えば、彼女の言うとおりである。
もし私が最初に佐和子を意識した時があったとすれば、その時が最初だったであろう。いくら佐和子にそう言われても、自分の記憶の中にある「おねえさん」と、今目の前に
している佐和子がダブって見えてしまうのはいかんともしがたい。顔が似ているというだ
けでなく、雰囲気が似ているのだからどうしようもない。そう感じたのはやはり彼女に対
して聞き返したくなる自分がいたからである。
私が佐和子と大人の関係になるまでには、それほど時間は掛からなかった。
「一度、食事でもご一緒しませんか?」
という私の誘いに、彼女は何のためらいも示さなかった。それどころか、まるで待っていたかのように快く引き受けてくれた。
店でする世間話は、大人の会話だったのだろうか? なるべく愚痴にならないように気
を遣いながら話しているつもりだったが、却ってそれがぎこちなくなることだってないと
は限らない。
自然に食事に誘い、自然に喫茶店に入り、自然にバーで酒を呑む、初めてのデートだからといって気負うところも一切なく、私がホテルに誘った時も、少なくとも私に違和感などなかった。
初めてのデートというと、お互いの気持ちが一つになっているだけでは、なかなかそこ
まで行かないものである。プラスタイミングというものが必要であることは、お互い大人
の男と女だからこそ分かっているはずなのだ。
「あなたの言う通りかも知れないわね」
と言いながら、彼女はソファーに腰掛けた。大人の女性を佐和子に見たのは、それが最初だった。
明らかに佐和子は年下の女性だった。食事中でも、バーでも彼女はあくまで私のことを年上として接してくれた。それを当然のように受け止め、それが違和感なく接することができた最大の理由だとも思っている。
ホテルのソファーに腰掛けた佐和子に少なからずの気だるさのようなものを感じた。女性ホルモンの分泌が激しさを増したのか、その気だるさに妖艶なものを感じ、今まで自分が接したことのない大人の女性を感じたのだ。
ホテルという場所がそんな思いにさせるのかも知れない。顔の表情も少しずつ変わってきている。瞼はトロンと重くなり、瞳は心なしか潤んでいる。口紅が今まで以上に真っ赤に染まっていて眩しいくらいだ。
――かなり酔っている――
酒の量からすれば、かなり呑んでいるような感じだった。しかし、歩いている時はまったくそんな感じはなく、酔いが回ってきたとすれば、ホテルに入ってからである。
明るさが微妙な調度であるため、顔色からは確認することはできない。
一旦大きな溜息をついたかと思うと、彼女は言葉を続けた。
「なぜかしら、さっきまでは何とも思っていなかったのに、ここに着いたとたん、あなたとは昔一度会ったことがあるような気がしてきたわ」
「何かを思い出したの?」
「いえ、何かを思い出したっていう感じじゃないの。思い出したというよりも、急に記憶の中に現れたって感じかしら? はっきりと説明できないんだけど」
「どこでだったの?」
「潮の匂いがしたわ。海のそばだったような気がするの」
私の記憶とも一致する。
佐和子が急に大人の女性に見えたのは、小学生の頃、私が目の前に現れた「おねえさん」に感じた大人の雰囲気を思い出したからかも知れない。その時の「おねえさん」が決して妖艶だったわけではないのだが、佐和子が何かを感じた瞬間、私も同じように「おねえさん」を思い出していたのだ。
――大人の女性――
もちろん、この歳になるまで女性を知らない私ではなかったが、心から任せられる相手は今までにはなかった。頭を真っ白にして、何も考えることなく身体を預けられる女性、佐和子のような女性を私はずっと待っていたのかも知れない。
普段にはない興奮が私を襲う。何もしないことが何ともむず痒く感じられ、身体の奥から湧き出てくる快感というものを貪ることができないような気がしていた。
なすがままだと欲求が満たされないタイプであることを今さらながら思い知っていた。最初こそ、湧き出る快感に酔いしれていたが、それだけではもの足りなくなる。相手の感じる姿を見てみたいと思うのは当然のことで、お互いに貪りあう快感を欲し、次なる行動へ出ようとするのだが、金縛りにあって動けない。
その時の私は焦りに似た表情をしていたかも知れない。自分でも感じるが、佐和子の征服感に満ちた、それでいてまるで包み込んでいるような笑顔を見た時、同じことを感じていると思っただけで、さらなる快感が私を襲う。
――こんなに感じていいのだろうか――
征服感こそセックスだと思っていた私の思いを見事に覆してくれた。
男でいることをしばし忘れさせ、女に生まれてくればよかったとまで思うほどの快感である。
私を攻め立てる佐和子との時間がどれほどのものであったかなど想像もつかない。
しかし、征服感に満ちた表情から次第に眉間を細め、何かを訴える表情へと変わっていくのを見ていると、金縛りにあっていた身体が急に軽くなるのを感じていた。
「あっ」
一気に佐和子の身体を貪った。そのたびに耐え切れずに沸き起こる声、それを聞いていると金縛りから解放された私の欲求は、頂点に達していた。
真っ暗な中で熱気を帯びた部屋に沸き起こる、耐え切れずに漏れてくる声。それが湿気となって部屋を重苦しくしている。
二人だけの、誰にも入り込むことのできない世界。もし自分の目だけが離れ、二人の様子を見ることができるとしたら、そこに感じるのは快感であろうか? それともいたたまれない思いであろうか? 想像することすら困難である。
部屋の中に二人の切ない声が交差する。息も絶え絶えに、湿気を帯びた重苦しい空気の中で、私はまったく別のことを考えていた。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次