短編集8(過去作品)
あの時、その後そこで何が起こったか、少年時代の私に分かる術はなかった。しかし、今ではそれが分かる気がする。
目を瞑ると安らかな顔の男が目に浮かぶ。それは私にはとてもできないような表情であった。
「あれは本当の私ではないんだ」
心の中でそう感じた。
「さっき見たことは本当のことなのだろうか?」
もっともな疑問である。
足がガクガク震えている。見てはいけないものを見てしまったためガクガク震えているのだろうか? それにしても身体全体から痺れを感じている。どうもそれだけが原因ではないような気がする。
身体全体に痺れがあるため、最初は気付かなかったが、両腕の握力がまったくなくなっていた。というよりも肘から先がまるで繋がっていないような錯覚さえあり、目の前に見えている腕が自分のものだという感覚がない。
じっと腕を見つめていた。たぶん、その腕が本当に自分のものだという確信が持てるまで、見続けるであろう。ひょっとしてこのままずっと自分の腕から目が離せなくなってしまうかもしれないという気がして仕方がないくらいだ。
しかし、そこで私は見たのだ。
「ああ、腕が消えていく」
動かそうとしてもまったくだめである。肘の辺りがカッと熱くなるのを感じ、それが耐え難いものになるであろうという確信を持っていたが、それは最初だけのことだった。次第に熱さを感じなくなり、神経が麻痺し感覚がなくなってくる。明らかに肘から先は自分のものではない。
「どこに置き忘れたのだろう?」
私は踵を返すと、もう二度と戻ることがないだろうと思っていたさっきの小屋に向かって歩き始めた。先ほどの逃げる時と違って、今度の歩みはゆっくりである。どこをどうここまで来たのか覚えていないが、かなりの距離を走ったつもりだったが、さっきの小屋はすぐそこに見えている。
地面を踏みしめている足が自分のものであることを確かめながら、一歩一歩近づいていく。そんな私から小屋は逃げも隠れもせず、私を待ち構えている。
「ううう」
小屋にだいぶ近づくと、中から呻き声のようなものが聞こえてきた。先ほどの濡れ場の感極まった声でないことは私でなくとも分かるだろう。
まるで井戸の底から聞こえてくる籠もったような呻き声は、地獄の底からの声なのだろうか?
その声を聞くと、肘から先の感覚がなくなっていた腕に熱がこもっている。明らかに脈を打っていて、今度はそれが自分の腕であることが分かる。しかし腕の先に行けば行くほど感覚はなくなり、痺れのため握力すらまったく感じない。
腕を目の前に持ってきて手首から先を見ているが、両腕で何かを掴んでいるかのように指が半分曲がった状態のまましびれを感じている。握ることも開くこともできない指をじっと見つめながら、小屋まで戻っていった。
「あっ」
それが声になったかどうか、私には分からない。耳鳴りが聞こえるほどシーンと静まりかえったその部屋では、不気味に通りすぎる風を感じるだけで、私の声も風に流せれてしまった気がして仕方がない。
一歩、二歩と歩み寄る。
さっきまでそこで繰り広げられていたはずの睦ごとが、頭から離れたわけではない。まだ、湿気を帯びた温もりが残っているはずのそこには、湿気はおろか、温もりのかけらも今の私から吹っ飛ばすほどの衝撃的なものが転がっている。
まわりのコンクリートの肌が、冷たさを演出していたが、そこに転がっているものは、そのコンクリートの壁よりもさらに冷たく、硬く感じられた。
一歩、二歩と歩み寄ったのは、触れて確かめようという気があったからに違いないが、近づくにつれ、その気持ちは薄れていく。
「うう、腕が」
さっきまで熱さのためか感覚の麻痺していた私の両腕が、意志に逆らって動き始めた。指が勝手にしなり始め、二度、三度と握り締める。もう熱くてたまらないほどではなくなっていたが、相変わらず手首から先の感覚はなかった。まさしそこから先は他人の腕である。
目の前の物体……、それは先ほど目の前であらわな醜態を晒していた女性であった。まったく私に気付くことなく乱れていたその姿が目に焼きついていたこともあり、目の前に転がっているそれが先ほどの女性だと分かるまでに、かなりの時間が掛かった。
透き通るような白い肌に、玉の汗を浮かべながら、ほのかに紅潮していた彼女が、今私の目の前で黒ずんだ物体として横たわっている。二度と開けることのないその目や唇はすでに色を失っていて、窪んだ影がさらに黒く浮き上がって見える。
近づくにつれ、風が次第に冷たさを増す。先ほどまでなかったはずの、耳を通り抜けていく音が耳鳴りを押しのけるように鼓膜を刺激する。
コンクリートの冷たい石の匂いが、鼻腔を刺激する。湿気を帯びた匂いはさらにゾッとするような冷たさを感じさせる。それでいて一歩歩み寄るごとに身体の奥から汗が滲んでくるような気がするのは、冷や汗ではないような気がする。
好奇心?
そんな言葉で片付けられるものではないはずである。
冷たくなった彼女を目の前にした瞬間。私の腕は彼女の首へと伸びる。もうすでに息絶えている彼女の首へと向かった腕に力が入る。痺れて感覚のなかったはずの腕は、もはや自分の意志ではどうすることもできなくなっていた。
芯からの冷たさを感じる。感覚が麻痺していたはずの指先が凍りつきそうなほどの冷たさである。
次第に力が入ってくるが、いくら締めつけても苦しむこともなく、何のリアクションが返ってくるわけでもないことに対し、頭の中でやり切れない思いがあったことは明らかである。
私の神経はすべて指先に集中していた。しかしなぜ、息絶えている女性の首を今さら絞めなければならないのか分からない。別に彼女に対しての恨みがあるわけではない。どちらかというと普通に出会っていればまず間違いなく好きになるであろうと感じるタイプの女性である。
いや、彼女の顔を見ているたびにまるで他人ではないような感覚がある。身体が反応する。私の身体に彼女の痕跡があるような気がして仕方がない。そう感じると首に掛かった腕にさらに力が加わる。
額から流れ出る玉のような汗、これ以上ないというほどカッと見開いた両方の眼、さらに怪しく歪んだ唇と、信じられないような表情をしているであろう自分が、ごく自然に頭の中に浮かんでくる。
この表情見たことあるような……。
とそう感じたのが早かったであろうか? 私は人の気配を感じると本能的にそちらに頭を向けていた。
そこには一人の少年が立っている。無表情でただこちらを見つめているだけなのだが、この状況で気配を感じるくらいなので、かなりの気配を漂わせていることに間違いない。私に向けられた視線をちらっと首を絞められている女性に向けたが、その時何とも言えない哀れみの表情を浮かべていた。さらにもう一度視線を私に戻した時の表情に浮かんだ親しみのあるような顔は一体なんだったんだろう。
まるで悪戯をしている友達を見ているようである。
私には少年の頭の中を思うに、それ以外はどうしても考えられなかった。いや、きっとそうなのだという確信があったとも言える。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次