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短編集8(過去作品)

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 昨日の夢の内容をはっきりと覚えているわけではない。しかし身体の奥からこみ上げてくる抑え切れない欲望に、全身の血が逆流するかと思うほどの興奮を覚えていた。
 少し歩みを緩めゆっくりと歩いた。彼女との距離を少しでも近づけようというささやかな思いであったが、足音から察するに、彼女も歩みを緩めたようだ。
 チラチラと後ろを振り返ってみる。
 相変わらず変ることのない無表情なその顔は、まるで能面のような冷たささえ感じた。廊下ですれ違う時でさえ、もう少し表情がはっきりしている気がする。まるで魂を抜かれてしまったのではないかとまで思えるような表情は、見ているだけでも気持ち悪く感じてしまう。
 最初の頃の笑顔が頭に焼き付いているので、それを壊したくないという思いもあった。さらに昨日の夢を少しずつ思い出してきた私は、あまりにも違う顔に戸惑いを隠せなかった。
「あれ? ここは?」
 確かに駅に向かって歩いているはずだった。少なくとも、一寸前通った電車の音が耳の奥にこびり付いていて離れないにもかかわらず、歩いているのはまったく違う場所だった。
 そういえば、朝の出勤時間のわりに、他の人が歩いているのを見かけないことに気が付いていながら、何の不思議も感じなかったのである。
 ゆっくりと歩いていく中で、右手に見えている空き地が気になってきた。鉄条網で囲まれたそこは、雑草が生え放題になっていて、かなり前から放置されていることを示している。小さい頃によく鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだことを、まるで昨日のことのように思い出していた。
 見えないが、奥の方に冷蔵庫やテレビなどの電化製品が捨ててあり、さらにその奥にある小さな小屋には、誰かが寝泊りでもしていたのかと思うような布団や毛布が、なぜかキチンと畳んで置いてあるイメージを感じるのである。
 なぜそこが気になったのか分からない。幼い頃の思い出がよみがえったのは確かで、木塀の表面に塗られた油の匂いを思い起こさせ、目を瞑ると舗装もされていなかった近所の風景が浮かんできた。
 ちょうど鉄条網の切れ目が見えている。
「あそこから入れるか」
 漠然と感じたのが先であろうか、足先はすでにそちらを向き、歩んでいた。
「何て遠いんだろう?」
 最初の感覚とは裏腹に、なかなか辿りつかない。しかし、足元を確認しながら茂ってきた草むらを掻き分けながら進んでいくと、気が付けば目的の小屋は目の前であった。
 生暖かい風が頬を撫でるように通りすぎた。ほのかに甘味を帯びたその香りは、まさしく少年時代遊んだ時に感じた香りだった。
 ガサガサ
「ん?」
 風による音でないことは一瞬にして分かった。どこからか聞こえるその音は、いつまでも耳の奥で響いているような気がした。風のせいでどこからか分からなかったが、どうやらそれが小屋の中からであると分かった時には、耳に溜まった全神経はすでに小屋の中に集中していた。
 物音を立てないように忍び寄る。よく分からないまでも、好奇心がメラメラと頭をもたげる。
「はあはあ」
 一気に重たくなった空気に乗って聞こえてくるその声は、
「見てはいけないものを見てしまった」
 という思いでいっぱいになった。しかし、その声がどういうことなのかを理解できず、ただ尋常ではない空気の中、ゆっくりと覗き込んだ。
 私の頭の中は、すっかり子供に戻っていた。まったく同じシチュエーション、大人になった今と子供の頃に始めて感じた衝撃、どちらが強いかを考えれば、結論は自ずと見えてくる。
「気付かれてはいけない」
 それだけを感じながら、ゆっくりと垣間見た光景は、私を仰天させた。
 男と女がもつれ合っている。まるで動物の本能むき出しそのままの行動に息を呑んでしまった。しかし私が仰天したのはそれが原因ではなかった。その場で立ちすくみ、動けなくなってしまっていた。
「目が合ってしまった」
 相手の男が私を見つめている。完全に私の存在に気付いている。相手も仰天していたが、男の表情は見られてはいけないものを見られてしまったという様子には感じられない。
 次の瞬間には不敵な笑みを浮かべ、むしろ私に対して勝ち誇った表情をしているではないか。
 私は“蛇に睨まれたカエル”だった。私の驚きをよそに、重ねた身体を見せ付けるように動きを激しくする。そのたびに襲ってくる波に順応な反応を示す女性は、どうやら私に気付いていないようだ。
 甘く切ない声が私の耳にこだまする。どこかで聞いたことがあるのを感じたのは気のせいかも知れないが、私が“女性”というものを感じたことがあるとすれば、その時が最初だったであろう。大人になった今でもその時のことは覚えている。
 気が付くと私は身も心も少年時代に戻っていた。
 何も知らなかった少年時代……。しかし目の前で繰り広げられる本能のままの動きを初めて見たような気がしないのはなぜであろう? 男の挑戦的な態度、それは
「知っている男だ。初めて見る顔ではない」
 という思いに私を駆り立てる。
 しかしそのうち男の集中力は私から離れた。目の前の女性に全神経を集中させ、あらん限りの力が女性に向けられる。迸る汗が光って見え、その激しさゆえに二人から目が離せないでいる私はその場に立ちすくんでいるだけであった。不思議と立っていることに苦痛は感じない。本当に地面を踏みしめて立っているのかすら怪しく思えるほどだった。
 やがて静寂を貫くような切ない叫びが聞こえたかと思うと、あとは糸を引くような声に変わり静かになっていく。しばし荒くなった息遣いがまわりに倦怠感を漂わせるが、私の緊張感も一気にほぐれていくのを感じた。
 二人は私がそばで佇んでいることなどまるで知らぬ顔で、けん怠感の中で身体を密着させている。
 気が付けば大人に戻った私は二人の行為が少年時代の記憶の中のそれと、まったく一致していることを理解していた。
「はじめて見た男女の営み」
 確かにその時のイメージは今も鮮明に覚えていた。しかしそれより不思議だったのは、一度もあったことのないはず男に見覚えがあったことだった。
私に見せたあの不敵な笑み、あれは間違いなく私を知っていて、私に対しての挑発にも見えた。
しかし、子供の心になって思い出した今では、その男の顔をどうして知っているかはっきり分かる気がする。
というよりも、今の私にも女を征服したあとの満足感と、その時に襲ってくる倦怠感を肌で感じている。
「あの顔は間違いなく、今の私ではないか」
 なぜ少年時代の私が、今の私の顔を見て、どこかで見たことがあると思ったかはよく分からないが、今はっきりとあの顔が今の私だと認識できる。
 荒く重々しい空気の中で倦怠感に身体を任せている二人の時間はそのまま延々と続きそうな気がしてきた。いや、このままずっと続いてほしいという思いが私にあったのはなぜだろう?
 何か嫌な予感がしたからに他ならない。
 もうすでにその時は、私の身体から金縛りは消えていた。
 男はこちらを振り返り睨んでいる。あの時もそうだった。怯えを感じた私はおもむろに踵を返し、そそくさとその場を出て行った。少年時代の再現である。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次