短編集8(過去作品)
力の入った腕が今、何かを思い出そうとしている。以前にも誰かの首に手を掛けたことがあると、私に語りかけているような気がして仕方がない。
耳鳴りと風が通り抜ける音しか聞こえていなかったこの場所で、聞こえるはずのない音が耳に入ってきた。
コッコッという物音、それを聞くたびに頬の筋肉が微妙に痙攣するのを感じる。そう、いつも聞くその音はあれだけ悩まされていた隣室からの物音である。耳鳴りの中から現れたその音は、私をいつまで苦しめればいいのかというジレンマに陥らせるに十分なものだった。
私の視線はいつしか少年のものになっていた。首に手を掛けるその顔に必死さはなく、どちらかというと不気味な笑みが浮かんでいる。嫌らしさを含んだその笑みを見ていると自分が女性の首を絞めているというという恐ろしい感覚はなく、感情が麻痺してしまったかのようになってしまった。
いつの間にか、私の息遣いはなくなっている。そして気が付けばコッコッという物音もまったく聞こえない。
私にとってのパラダイス……。
音もなくただ風が流れるだけの冷たい世界。こんな世界を私は望んでいたのだろうか?
暗くて陰湿で、何もない世界。騒音はおろか、音という音すべてが遮断された閉鎖的な世界。一番嫌いだったはずの世界を今何の抵抗もなく受け入れようとしている。そんな私をじっと見つめているのはまさしく少年時代の私である。
何度となく夢で見たことのある光景、それを今私は目の当たりにしているのだ。
夢自体が正夢だったのか? それとも今その夢を実際に見ているのか? 自分でもよく分かっていない。いや、誰であっても分かるはずのないことである。
それでも今、私は必死で考える。
あの女……、私の腕にはっきりと残っている生暖かい痕跡、どうしてあんなことをしたのだろう?
あの日、あの時、私が彼女を見かけなければ……。後悔にも似た思いが頭をよぎるが、“独り占めできる”という思いも無きにしもあらずであった。
それまで、気にはなっていても、衝動的な行動に出るほどの感情などあろうはずがなかった。暗い夜道を後ろからついて歩いているうちに、括れた身体の線が懐かしく思えてきたのを思い出している。
彼女は私が近づいているのを知っていたのだろうか? 私が歩みを速めても、ゆっくりにしても、その距離は一向に縮まったり、広がったりしなかった。それにもかかわらす一度も振り向くことの無かった彼女は淡々と歩き続けていた。
気が付けば一度も通ったことのない道に迷い込んでいた。マンションに帰るには明らかに遠回りで、“なぜこんな道を?”と首をと思いながら歩いていると、気が付けば田舎道に入り込んでいたのだ。
そこは綺麗な街灯が点いているわけでもなく、寂しげに裸電球の上に“お情け”程度の傘がついているだけといった寂しいところである。
木の塀があるのか、懐かしい油の匂いがしてくると、私の頭の中に小学生時代の思い出がよみがえってくるのを自覚していた。
塀の向こうは空き地になっている。
見たこともないくせに、なぜかそう思うのだった。これも小学校時代の思い出が成せる業だった。
壊れた塀があり、そこから中に入ったが、その場所すら私の記憶どおりであった。
彼女の後姿が見える。追いつけないまでも見失わないようにし、さらに気付かれないように心掛けなければならないのは、なかなか難しいことだった。
しかしそれも一定の距離があることは彼女に私の存在を知れないようにするには好都合である。
小屋の中に消えて行く彼女を追いかける。消えてしまった彼女との距離がこれで一気に縮まるような気がした。彼女の目的地が小屋の中のような気がして仕方がないからだ。
壊れかけでガラスもまともに入っていない窓から中を覗く。
いつの間に?
彼女はすでに生まれたままの姿となり、一糸まとわぬその姿に私の目は釘付けになった。じっとこちらを見ている。その視線に隠れることを忘れてしまった私は、ただじっと見つめていた。
誰かを待っている。
とっさにそう感じたが、彼女のその時の目は明らかに私を誘っている。その証拠に私を見つめる目は中に入ってきた私を追っていて、その表情には期待感が溢れているように思えて仕方がないからだ。
両手を前に突き出し、私を招き入れる。誘われるように抱きつく私の背中に巻きついた彼女の腕に力が入る。もう迷うことなどなにもない。唇を塞いだその瞬間から、私は彼女の虜になってしまった。
そこから先は意識が朦朧としていた。途中信じられないような快感が身体を貫いたという意識だけがあるのだが、気がつけば腕が痺れていて、肘から先が熱く脈を打っていて、まるで自分のものではないような思いがあった。それでいて自分のものではないはずの指先に残った暖かく軟らかい感覚が何を意味するか、分かるような気がしていた。
発作的に私はその場から逃げた。しかしそこから立ち去ることはできなかった。逃げようと思えばどこへでも行けるのだが、しばらくすると、もう一度その現場に戻っていたのだ。
夢にまで見た快感を身体の奥に感じながら、なぜか憎しみもないのに手を掛けてしまった。自分がやったという自覚はない。
彼女は本当に隣に住んでいた奥さんなのだろうか?
唐突に感じた。そもそも隣に夫婦が住んでいたことすら、記憶の中から消えようとしている。
確かに私は音に悩まされていた。ノイローゼとなり、気も狂わんばかりの毎日だったことには違いない。やはり引っ越した今もなお、ノイローゼ状態が続いているのだ。
ノイローゼが作り出した幻影? それにしてもリアル過ぎてはいるが……。
それにしても……。
またしても、私の頭は少年時代へと逆戻りする。
最初に見た思い出を何度も思い出した記憶がある。ひょっとして何度か同じものを見たのではとさえ感じるほどであった。
だが少年の頃に見た思い出の中で、最後の肝心な部分が朦朧として思い出せない。それは思い出してはいけないものとして記憶の中で封印していたものだが、ここに到ってそれが何か分かりそうな気がする。
男が私に気が付いた。
ものすごい形相で襲い掛かってくる。
キラリと光るものを私に向かって振り下ろしているようだ……。
これから先は、もう二度と音に悩まされることはないだろう……。
そう今も誰かに見られているかも知れない……。
( 完 )
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次