短編集8(過去作品)
溜息が自分の本来の声に変っていくのが分かった。しかしそれは喉の震えが感じたことであって、決して自分の耳に聞こえてくることはなかった。
まるで真空状態にいるような感じなのだが、それでも呻き声のような息遣いは鼓膜を刺激する。それに伴い反応する身体はとても正直である。
「優子……」
心の中で呟いていた。
するとどうだろう。今までまったく自然にお互いの身体を貪り、軟体動物のようにこれ以上ないというほど密着させながら蠢いていたはずの、彼女の動きが止まった。
「うっ」
それはまったく予期せぬ出来事だった。昂ぶっていた身体が一気に冷えた感じがして、私の動きも止まってしまった。すると今まで優子だとばかり思い、貪っていた身体が急に違う人のように思えてきた。
「君は一体……」
声に出して尋ねた。
「ふふふ、誰でもいいじゃない」
そう言って、身体を動かし始めた。その動きは先ほどまでと比べても、さらに淫靡な感じを受けた。どちらかというといつも受身に近い優子は、身体を重ねる時もどこか遠慮があった。しかし、不敵な笑みが想像できる彼女には、優子のような“遠慮”は感じられない。本能のまま蠢くその動きは、男としての私に新しい快感の波を教えてくれている。
シーツの擦れる音と同時に、先ほどにも増して熱い溜息交じり、吐息が聞こえる。
声には聞き覚えがあった。しかし今はそんなことを考える余裕などなく、ただひたすら快感に溺れ、まもなくやってくる最高潮な状態を想像し頭の中が真っ白になっていた。
「はあはあ」
ツンと鼻をつくような酸味を帯びた匂いが、さらに快感を押し上げていく。汗が迸る中、規則的に漏れている切なそうな甘い声に、私の頭には走馬灯が回っていた。
だがそこにはさっきまではっきりと覚えていたはずの優子の身体はなかった。おぼろげではあるが、知っている女性に微笑みかけられ、あくまで紳士的な笑みを浮かべる私の顔を想像することができる。
だが……。
目の前で私に抱かれる彼女は、どうやら想像した女性のようだ。今まで彼女のそんな笑顔を見たことのない私は、さらに私の腕の中で乱れている姿など、とても想像できるものではなかった。それだけに一向に戻ってくる気配のない部屋の中で、彼女の表情を想像することができないでいた。
しかし身体は正直で、高まってくる快感を抑えることはできなかった。
「愛してはいけない女性……」
そう彼女は隣の奥さん、本来であれば、騒音の元凶として憎むべき相手なのだろうが、そんな相手が私の腕の中ですべてを任せているのだ。
そう思うだけで、私の想像はとどまるところを知らず、腕の中で身悶えする彼女の動きを勝手に想像していた。
「雅人……」
私の名前を呼ぶ。だいぶ窮まってきたのか、押し殺したような低いハスキーな声が途切れ途切れに聞こえてくる。その声を聞いてさらに腕に力が入る私は、襲い来る快感を抑えるのに必死だった。
潜在意識とは恐ろしいもので、絶えず私の中でくすぶっていたのだろう。こんなことを想像したことなどあるはずもないのに、まるで以前から彼女の身体を知っていたような気がするのだ。
もうすでに静寂な時間は通り過ぎていた。私の身体の中で身悶えする彼女は、私の想像どおりに感じてくれた。どこに触れれば彼女が一番感じるか、すべては私の頭の中にあったのだ。
「綾子……」
ついに今まで喋らなかったのにその声が私の口から漏れた時、欲望が身体から放たれるのを感じた。頭の中はさらに真っ白となり、何も考えられない。欲望と同時に私の気持ちまでもが、身体から勢いよく放たれていったような気がした。
「はあはあ」
粗い息遣いとともに、目が覚めるのを感じた。
「夢か」
それにしてもリアルな夢である。身体からは汗が噴出していて、気持ち悪い。
不思議なのは誰もいないはずの夢の中を誰かに見られていた気がして仕方がなかったことだ。
火照った身体から気だるさを感じながら、知らないはずの彼女の感触が残ったままの身体を何とか起き上がらせると、私はそのままシャワー室へと向かった。
べったりと纏わりついたような汗を、湯気を立てながらシャワーが勢いよく流し出していく。シャワーの流れる音を聞いていると、夢見心地から次第に現実へと引き戻されていくのを感じるのだった。
いくら想像だけのこととはいえ、許されないことだという罪悪感が私に襲い掛かる。しかしそんな思いとは別に身体に残った彼女の感触を、このままずっと持ち続けていたいという思いがあったのも事実で、それぞれの気持ちが大きくなり、私の中でジレンマとして形成されていった。
「今度顔を合わせたら、どんな顔をすればいいんだろう」
その思いでいっぱいだ。
確かに最近顔をあわせることはなくなった。
元々、隣は夫婦とは言え、夫婦揃っているところを見たのはいつが最後だったろう。ほとんどと言っていいほど見かけない。というよりもご主人さんを見かけることがない。
「出張の多い仕事なのかな? それにしても子供がいたような気がしたが……」
そういえば、子供も見かけない。いや、正確に言えば、子供がいるところを見たことがない。
「子供がいると思ったのは私の勘違いかな?」
そんな思いがあった。いてほしくないという気持ちの裏返しかも知れないが、まんざら本当なのかも知れない。
それにしても、走り回る音や、ゴルフボールの音、あれは何だったんだろうとさえ思ってしまう。子供だとばかり思っていたので、まさかあれは他の部屋からだったのか。
いや、それは考えにくい。日が暮れてうるさいと感じた時、表に出てベランダ側から覗くと、その日は珍しくほとんどの部屋に電気がついておらず、電気がついているのは、私と隣の部屋だけだった。
そのことが確信となって、管理会社に苦情を言いにいったわけで、それがなかったらいまだに泣き寝入りしていたかも知れない。いくらノイローゼとは言え、根拠のないことを言うわけにはいかないからだ。
果たして次の日も同じような夢を見た。
しかしその日の彼女との再会はごく普通のものだった。駅に行く途中の道で見かけたというもので、夢だという感覚が最初からあったわけではない。たぶん昨日の続きのような夢であっても、最初からそれを夢だと認識することはないかも知れないと感じてはいた。
だが本当に夢だったのだろうか?
いつものように、何かを考えているのだが、何を考えていたかすぐ忘れてしまいそうな頭がすっきりとしない朝である。日課のごとく、ただ駅へと向かうだけの私だったが、その日は珍しく声も掛けられていないのに、気配だけで振り向いた。たぶん声を掛けられるとドキっとして一気に目が覚めてしまうだろうと思うほど、意識が朦朧としているはずである。
しかし、その時の私は声を掛けられることよりドキっとした思いが強かった。こちらを凝視する彼女の視線は、無表情のためか何を考えているのか想像もつかなかった。しかしそれでも瞬き一つすることのないほどカッと見開いたその目は、明らかに私に何かを訴えている気がした。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次