短編集8(過去作品)
しばらくはこれ以上ないというくらいの幸福に酔いしれていたが、悪夢は突然やってきた。
女性仲間が計画したフィリピン旅行に優子が誘われたのは知っていた。彼女自身、本当は気が進まなかったようなのだが、それを私に対して気を遣ってくれていると思いこみ、
「いいよ、楽しんでおいで」
と快く送り出した。
そこまではよかった。渋々であったが、楽しそうにデッキで手を振る優子を見送った私は数日すれば帰ってくる優子を楽しみに待ってさえいればいいのだ。
しかし……、その期待は脆くも崩れ去った。
「フィリピンで観光バスが、トラックと衝突……、乗員乗客は死亡および重軽傷……」
その死亡者リストの中に優子の名前を見つけた時、よく気が狂わなかったなと思ったくらいである。足元が急に消えてなくなり、奈落の底へ突き落とされる自分が目に浮かんでくる。指先は痺れ、自分の身体ではなくなった気がした。
「どうしてこんなことに……」
この言葉だけが繰り返し聞こえてくる。行きたくない様子の彼女を説得して行かせた自分にも憤りを感じる。自分を責めるなと人からは言われるが、無理だった。
信じられないという思いとは別に、何かほかの思いがあった。それが何かは分からない。しかし、それも以前から分かっていたような気がする。
皆、私には同情的だった。二人が付き合っているのはすでに公然の秘密となっていたこともあって、それだけに私の落ち込みようが皆にも分かるらしい。しかし本当の苦しみは当の自分にもよく分かっておらず、まるで他人事のような気さえしていた。
「たぶん、これは夢なんだ」
心の中で反芻するも、こればっかりはどうしようもない。少なからずも責任を感じながら生活していたが、時としてその思いに押し潰されそうになる。
優子の死を自分なりに受け入れられたのは、やはり、葬儀の時の遺影を見てからであろうか。皆一様に悲しみの表情を浮かべ鎮座している中での読経や線香の香りは、嫌がうえにも優子がもうこの世にいないということを思い知らせてくれる。
初七日が過ぎ、四十九日が過ぎたが、優子の思い出が消えることはなかった。仕事が手につくわけもなく、最初の頃は私に同情的だった同僚も、さすがに業を煮やしたか、私がミスれば怒りをあらわにする。相手が男性であればそれほどでもないが、こと女性からはかなり露骨に思われているようだ。
たぶん今ならどんなにいい女が目の前に現れても、私の心を癒してくれることはないだろうと思うほどだった。
「吉岡、あいつはだめだな」
そんな声が上司の間で囁かれているのが、自然と耳に入ってくる。このままではダメになってしまうかも知れないことは重々承知なのだが、その時の私にそれを跳ね返す術も力もなかった。
自分がだんだん嫌な人間に思えてくる……。
自分でそう思うのだから、当然他人から見てもそうに違いない。まわりからの不協和音も当たり前のことのように感じる。
そこへ持ってきてのマンションの隣室からの騒音、ノイローゼにならない方がおかしいかも知れない。最初こそ、それほど気にならなかった。しかし、一旦気になってしまうととことん気になるのが私の性格で、音がするたび、激しくなる胸の動悸を抑えることができないでいた。
しかし、苦情が功を奏したのか、少し音が静かになった。私には嬉しい限りであったが、しかし今度はそれだけに余計、優子とのことが思い出される。今まではノイローゼのおかげで思い出さずにいたのが、目の上のタンコブがなくなったことで今度はまともに思い出すのだ。
そのうち何とか……。
それ以上のことを考える余裕がなかった。
ある日のことである。その日は珍しく、物音ひとつない日だった。出かけているならいざしらず、駐車場に車はあった。いつも帰宅時気になって駐車場を見てくるのが、癖になってしまっていた。出かけるなら扉の閉まる音や、廊下を歩く音が響くのですぐに分かる。間違いなく出かけた様子はない。
その日の私は昼間から頭痛に悩まされ、少し早めに帰宅していた。テレビもほどほどに十時過ぎには横になり、睡眠体勢に入っている。薬を飲んでいるので睡眠作用が働いているのだ。
今までにも何度かあったことなので、慣れたものだが、優子が亡くなってからはなかったことだ。したがって隣室の物音も気にしていなかったが、さすがにその日帰宅するまでは気になっていて、良くなるものも良くならないのではと感じていた。
しかし、幸か不幸かその日に限って、物音は一切しない。最近音がしなくなったとはいえ、それでも少しはしていたのだ。ノイローゼの中では、そんな些細な音でさえ辛く感じていた。
薬の効き方は抜群だった。最近薬らしい薬を飲んでいなかったこともなってか、指先が痺れてくるほどで、ほんのりと身体の奥から湧き出してくるような汗が、薬が効いてきたことを示している。
ベッドまでは確かに記憶があった。気が付いたら死んでいたなどというギャグにパラドックスのようなものを感じながら、思わず可笑しくなりそうな思いがしたのは意識が薄れてきた証拠だろうか。睡眠に落ちていく時にたまに感じることである。
汗を気持ち悪いと感じ、なかなか寝付けない。目を瞑って必死に眠ろうとすればするほど身体の奥から汗が滲み出る。
それは汗だけだったのだろうか? 男としての欲望が、抑えきれずに私を睡眠へと導いてくれない。その思いが汗となって身体の奥から湧き出してくるのだ。
頭の中で白いものが蠢いている。それはまるで小さな無数の虫が身体を這うような気持ち悪さを伴っていたが、果たしてそうなのだろうか?
おそるおそる目を開ける。白く蠢くものは小さな虫などではない。嘔吐を催しそうな気持ち悪さが快感へと変るまで、あっという間であった。
真っ暗な部屋の中でも白く浮かび上がっているものは、きめ細かな肌に薄っすらと汗が滲んでいるのか、光るはずのないところで自ら光を発しているかのようだった。
「はあはあ……」
身体に滲んだ汗を感じているせいか、濃厚な空気の中で聞こえてきたのは明らかに女性の息遣いである。男としての私は頭で理解できないまでも、身体はしっかり反応しているのだが、思ったように身体が動かない。
空気の入る隙間もないほどに、纏わりついてくる白い物体は私をどこに連れて行ってくれるのだろう?
気が付けば私の息遣いも激しくなっている。それが合図となってか、それまでかなしばりにあったかのようにまったく動かなかった身体が急に軽くなった。しかし自分の意志で軽くなった体を動かすことはできないようで、考える前に身体が勝手に動き出す。
いや、本能のままに動いているのであって、意志で動かせないというのは不適切だ。正確に言えば、意志を感情が後追いしているというべきである。
息遣いはそんな私の気持ちを表わしていた。決して自分の意志からではない息遣いが却って淫蕩な雰囲気を醸し出し、さらに身体の奥に溜まった熱いものを噴出させる。
真っ暗な中で相手の顔も分からず貪りついた身体に覚えがあった。
「忘れるわけがない」
心の中でそう呟きながら貪りついたが、相手にもそれが分かるのか、無言の要求どおりに応えてくれる。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次