短編集8(過去作品)
このマンションに引っ越してからそろそろ五年が経とうとしている。一人暮らしの私には少し贅沢とも思えたが、今から考えればマンションを決めたのは安息を求めてだったような気がする。その頃はもちろん物音などそれほどなく、平穏な毎日だったのだ。
隣の夫婦は新婚で入居してきた。私が入居してから数ヵ月後だった。
仲むつまじい姿をあまり見なかったような気がする。旦那の仕事の関係もあったのではないかと推測するが、奥さんの方とはちょくちょく廊下や玄関で顔を合わせていた。
会話をしたこともあった。仕事帰りに偶然、買い物から帰る奥さんと一緒になった。私の仕事の話や、他愛もない世間話だけで終わってしまったが、それだけでも彼女が話し好きな女性であることはよく分かった。
「ええ、結婚前は働いていたんですけど、今はまったく違うことの毎日で却って疲れますね」
そう言って彼女は、はにかんで見せた。クリっとしたパッチリとした目も小さくなるくらい、目の周りにかすかに寄った皺が可愛らしさを演出している。少し長めの髪を後ろで束ね、それがさらに若々しく見え、こんな綺麗な人が人妻なんだと、少し嫉妬にも似た感情を抱いたのを覚えている。
その頃すでに妊娠していたのに気が付かなかった私は、それから専業主婦になった彼女を何度か見かけたのだが、あまり話をすることはなかった。廊下ですれ違った時などこちらから頭を下げ会釈をしたのに、相手から何のリアクションも返ってこないのだ。せっかく浮かべた満面の笑みの落としどころを失ってしまった私は、ただバツの悪さを感じるだけだった。
一人暮らしの私は彼女もできず悶々とした日々を続けていた。学生時代から引っ込み思案で、女性に声を掛けることすらなく、もちろんそんな私に対して女性から声を掛けてくれることなどあるわけもない。
しかしそんな私も男の友人はかなりいた。
どちらかというとミーハーが嫌いな私はまわりから見れば、はぐれ者の部類だったかも知れない。しかし自分で言うのもなんだが、それでもしっかりした考え方を持っていたはずなので、私に共鳴してくれる人は少なくもなかった。それが私の自慢でもあったのだ。
そんな私にもようやく彼女ができたのは、隣に例の新婚夫婦が引っ越して来た頃であった。
入社五年目に突入した年の新入社員の中に彼女はいた。
最初あまり気にもしていなかった。さすがに三年目くらいまでは、女性新入社員が入ってくるという噂を聞くとウキウキし、あろうはずのない期待に心を弾ませていた。桜の咲くこの時期は、私にとって散る前だけでも淡い期待が持てる唯一の時期だったのだ。
彼女は、今年の女性新入社員三人の中の一人だったのだが、すでに鼻の下を伸ばすことを卒業した私に対し、笑顔で接してくれる。名前を日高優子と言った。
「新人なんだから、社交辞令さ」
心の中で毎年思うことである。
しかし彼女は違っていた。私のどこに興味を持ったのか分かるはずもなく毎日顔をあわせていたが、さすがに鈍感な私も彼女の気持ちが少し分かる気がしていた。
「今度、映画でもどうですか?」
ここまで切り出すのにどれだけの勇気が行ったことか。断られたらどうしようという気持ちのあった私に彼女は、
「はい、お供します」
と二つ返事で返してくれる。もちろん笑顔だった。
その笑顔の裏に、
「その言葉を待っていたのよ」
という思いがあったことに確信が持てるようになったのは、それからしばらくしてからのことだった。
いざデートの日、映画を見て、ショッピング街を二人で歩き、疲れたら喫茶店に寄るといった面白くも何ともないデートだったにもかかわらず、終始笑顔の耐えない彼女に、私は次第に心を解かされていくのを感じていた。
「僕と一緒で退屈しないかい?」
今時の女性がどんなデートを好むのか分かるはずもない私は、喫茶店で落ち着いた時、思わず尋ねていた。
「いいえ、全然。今日は誘っていただいてありがとうございます」
まったく変らない彼女の笑顔に私は感激していた。
最初の体を重ねた日、忘れられない日となった。お互い、初めてではなかったはずなのだが、とても新鮮だったのは体の相性がピッタリだったからかも知れない。
デートを数回重ねた後でも、まだお互い身体を求めようとしなかった。それが長いのか短いのかは、比較対象となるものがないので私には分からなかった。人に聞くわけにもいかず、自分なりに“これが普通なんだ”と思っていた。
初めて優子を部屋に呼んだ時、彼女には覚悟があったのだろう。それまで笑みを絶やさなかった優子の顔に走った一瞬の緊張を私は見逃さなかった。
「雅人」
部屋に入るなり、優子は私に抱きついてきた。着痩せするのか、見た目のスレンダーさのわりに抱きついてきた身体は、はち切れんばかりに私の身体に密着している。ふくよかな胸の感触を味わうかのごとく、密着感を感じていた私の唇を優子は激しく求めてくる。
私は少し戸惑っていた。想像していたはいえ、あまりにも急な展開に完全に主導権を握られてしまった。私の想像のほとんどは主導権を握る方だったのだが、たまに想像が“おまかせ”だったこともある。しかしそれでも今日の優子は私の想像の域を完全に逸脱していたのだ。
「お願い、抱いて」
その言葉が引き金になり、私は意を決した。
優子を抱きかかえるようにベッドへ運ぶと、そこから先はもう遠慮などしない。遊んでいた両手の指は激しく彼女を求め、反応があるたび喜びを感じている。
指がすでに優子の敏感な部分に到達する頃には、まるで以前から彼女の身体を知っていたような錯覚に陥っていた。いや、女性というもの自体を知り尽くしていたような気がしてくるから不思議だった。
ネコのようにまとわりついてくる優子の身体、それを弄ぶかのように指は彼女を容赦なく攻める。
「ああ」
悦楽の甘い声が合図になって、私は優子の身体を貫いた。
「暖かい」
最初に感じたことだった。
この暖かさを男は求めるのだと、快感が全身を貫く中、襲ってくる波に耐えながら感じていた。
次第に優子の声が大きくなる。
隣に聞こえているだろうな……。
快感に身を任せながら、薄れいく感覚の中で何の脈略もなく、そう感じていた。
優子の発する悦楽の声を、またしても以前からずっと知っていたような思いに駆られながら、私の欲望は彼女の中で果てた。
なぜだろう? 誰かに見られている気がする。しかし、その思いもすぐに快感が打ち消してくれた。
しばらく心地よい気だるさに身を任せるように、熱くなった身体をこれ以上ないというほど密着させていた。お互い声を発することはなく、言葉などいらない時間が本当にあるのだと実感させられた。
それは私にとって初めての安らぎの時だった。
心と身体が初めて一つになったような気持ちで、これが“満たされる”ということかと心底思ったくらいだ。優子も同じ思いだったに違いない。安らかな寝息を立て、私にしがみついたまま離れようとしない優子を、包み込むように抱きしめていた。
しかし、時はそんな幸福を私に長くは与えてくれなかった。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次