短編集8(過去作品)
誰かに見られる?
誰かに見られる?
「吉岡さんの言われることも、我々にはよく分かります。しかし、我々といたしましても、通知するなりして努力をしておるわけでして」
そう言って、必死になって額の汗を拭っているその姿は、他の人から見れば痛々しい限りであろう。
しかし、当事者の私としては死活問題である。そうでもなければいちいち足を運んで直談判などすることもなく、ただ電話で苦情をいうだけに留まっているはずだ。
「あなたのおっしゃることも分かります。しかしこちらはノイローゼに掛かってるんですよ」
私の口から、さらに男を追い詰めるような言葉が飛び出す。
「いやぁ、私どもと致しましても、あまり強く言える立場ではありませんで、相手が特定されたとしても本人たちが“私たちではない”と言えば、もし裁判になったとしても必ずこちらが負けます」
私がその時もう少し冷静であったならば、その意味が分かったかも知れない。あまりにも理不尽であるが、所詮法律などというもの全体の利益を中心に考えられているので、時として弱者には弱いものである。
しかし、簡単に“はい、そうですか”と引き下がれるわけにもいかなかった。わざわざここまで出向いてきて、怒りが最高潮に達している状態を覚ますには無理を押し通すしかないのだ。
「じゃあ、何ですか。私にこのまま泣き寝入りをしろとおっしゃるんですか?」
激しく詰め寄る私に、一瞬だが、たじろいだ仕草を見せた。次第に大きくなる私の声にまわりの人たちは驚いている。お茶を持ってきた事務の女性の手が明らかに震えていたことからもその場の雰囲気が私一人のために壊れていることは重々承知している。
しばしの沈黙とともに、重々しい空気が一帯を包んだ。
ここはとあるマンションの管理会社、以前家賃の関係で一度訪れているが、その時はもちろん苦情のようなものではなく、ただ手続きに来ただけだった。本来ならば、ものの五分も掛からないはずのことだったが、その時はちょうど会社が休みで時間があったこともあってか、営業の人と世間話に花を咲かせ、気が付けば午前中いっぱい時間を費やしていた。
「いや、すみませんね。お忙しいところを私のような者に付き合って頂きまして」
会社で営業マンをしているだけに、腰は低いつもりである。その時のお茶をもって来てくれた事務員の女性の顔には、満面の笑みが零れていた。それだけに今日の私を見た人は仰天しているに違いない。私としてもイメージを壊すことは心苦しいが、ノイローゼになってしまったのだから致し方ないと思っている。
「じゃあ、どうしても迷惑料を取るとおっしゃるんですか?」
「ええ、このまま事態が続くのであれば、こちらも真剣に考えたいと思ってます」
五階建てのマンションの四階に私は住んでいるのだが、最近物音に悩まされている。最近というのは語弊があるが、実際はかなり前からでノイローゼ気味になり始めたのが最近ということである。
それまではさして気にならなかったが、一旦気になってしまうと小さな物音まで敏感に感じるようになり、ちょっとした物音にまで心臓の動悸が激しくなった。
物音の元凶は間違いなく隣の住人に間違いない。奴らが引っ越してきた時、嫌な予感があった。子供が二人いて、いかにも活発そうな子供だったからだ。
果たして私の予感は的中した。走り回る足音、壁を叩くような音、ゴルフボールのような硬いものが床に跳ねる音、それが子供の仕業だとすればすべて辻褄が合うのだ。
それにしても他の住人はどう思っているのだろう?
「苦情をいうのは、私だけなんですか?」
と聞いたことがある。
そのことも実は気になっていた。時々苦情の電話を掛け、管理会社の担当者との話の中で、それとなく聞いてみたが、
「いえ、他の部屋の方からこれといった苦情は寄せられてませんね」
と答えるだけだった。
苦情が私だけなら、管理会社としてもあまり強く言えず私の話を軽く流していたのかも知れない。そう考えると腹が立たないでもなかった。
私としてもこれ以上強く言って雰囲気を壊すのも嫌だと、今まで引き下がってきた。しかし事ここに到って、そうも言っていられなくなった。
ストレスは虫歯と同じで、少しだけの応急治療でよくなるものではない。次第に私の神経を蝕み私を追い詰めていく。最近では心臓の鼓動の激しさはおろか、頭痛が吐き気を伴うようになり、耐え難いものとなってしまっている。
イライラの矛先は回りの住民にも及び、私以外でも同じように迷惑を被っているはずなのに、面倒くさいのか、波風を立てるのを恐れてなのか、申告しない連中に腹が立っていく。被害妄想かも知れないが、回り全員が敵に見えてしまうのも私を追い詰めるに十分な効果である。
私としても迷惑料がほしいから言っているわけではない。相手もそれは重々分かって話をしているはずである。それほど私が苦しんでいることを分かってもらいたいのと、この話を一担当者のレベルから、会社全体の問題に発展させてほしいというささやかな願いからである。
「しかし、迷惑料というのが発生しているケースはありませんからね」
必至で担当者は答える。
確かにそうだろう。そう答えるのも分かって聞いてみたのだ。
「じゃあ、退去を願い出てほしいですね」
「いや、それも相手が認めない以上、どうにもなりませんね。こういったケースは必ずと言っていいほど、相手の方はお認めになりませんから」
「要するにシラを切られたんですね?」
自分の顔が紅潮していくのが分かった。カーッと耳たぶまで一瞬のうちに赤くなるほどの怒りが心の底からこみ上げてきているのだ。
担当者は一回咳払いをし、言葉を濁すように
「まあ、そうですが。退去ということになれば、相手がお認めになったうえで、さらにしばらく経っても改善されない場合、こちらから勧告することもあります。それも当たり障りないようにソフトにですけどもね」
何と理不尽なことだろう。話をすればするほどこみ上げてくる怒りは如何ともし難く、かといってこのまま引き下がるわけにもいかないではないか。次第にジレンマに襲われる自分を感じていた。
迷惑料もだめ、退去もだめ、このままでは泣き寝入りである。
だめだろうと頭の中で思いながらも、それでもかなり粘ってみた。しかし、相手の返事が変るはずもなく、そのうちこちらの溜飲も少しずつ冷めていく。
「そうですか、それでは仕方ありませんね」
溜息混じりにそういうと、担当者は明らかにホッしたような様子を見てた。
いつもであれば、そこで相手の態度に突っ込みを入れたくなるのだろうが、さすがにその日は、疲れきっていた。半分、もうどうでもいいとまで感じ、それ以上相手を攻める気にもなっていなかった。
「まあ、僕が金属バットを持つことないようにしてください」
皮肉を込めて、最後に一言言いたかった。
「えっ、よしてくださいよ」
一瞬、それを聞いた担当者に緊張が走った。当然、冗談だと分かっているはずなのに、今の緊張はなんだろう?
声の上ずりから考えると、その時にしていた私の表情がかなり窮まったものであったことが想像できる。目はマジだったかも知れない。
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次