短編集8(過去作品)
「運命」を感じたと言っても過言ではない。
それは恭子を含めた自分の運命である。
優美子の中に、以前の私の中で感じたことのある何かを感じたのも「運命」だと思った一つの理由かも知れない。
あの日、私が優美子と一つになった時、私の頭の中に恭子はいなかった。
すでにその頃の恭子は、出会った頃の恭子ではなく、あの純真無垢さは感じられなかった。
「ねえ、私のこと、どう思う? 私を嫌いになったりしないわよね?」
これが恭子の口癖だった。
私への執着心がとても強く、それが次第に猜疑心に繋がるのではないかとも考えたが、恭子にそこまでの余裕すらなかったようだ。
――私への執着心なのだろうか――
最初こそ私への執着心だと思っていたので、いじらしさのようなものを感じていたが、どうやら少し勝手が違う。
それまでタブーであった水谷の話を少しずつ話すようになっていた。そこには「兄」を語る妹としての恭子は存在しない。一人の女が一人の男のことを語っているのだ。
「あの視線が怖いの。そのうちに理性が……」
そこまでいうと私にしがみついてくる。もちろんそんな会話はベッドの中で満足感を味わった後に出てくるもので、それだけに感じている時の恭子は、まるでケモノのようである。
「あなたが私を愛してくれれば、私は大丈夫」
そう言ってしがみついてくるのだ。
――少し深みに嵌まったかな――
そんなことを考え始めた時に出会ったのが優美子だったのだ。
優美子は私に何も求めない。確かに純真無垢だった恭子をオンナとして目覚めさせた私にもそれなりの責があるかも知れない。しかし少しずつ大きなタンコブのように感じてきたのは、優美子の存在が大きかった。
優美子といれば、とにかく心が休まる。
妖艶な優美子に対して身体の底から湧き出してくる興奮が満たされたあとであっても、そこにオアシスのような心の安らぎがある。優美子は私の心を受け入れて余りあるダムを持ち合わせているのだ。
私にはそれが彼女の妖艶さを引き出しているような気がして仕方がない。
私と優美子はその後急速に接近していった。優美子の妖艶さを余すことなく私に示し、私もそれに答える。次第に恭子の存在が邪魔者として大きくなっていったのはそれからだった。
恭子があれほど豹変するとは思わなかった。恭子にしてみれば、今まで兄と思おうとして努力してきた人から、オンナとして見られるのである。溜まったものではないだろう。元々ぎこちない兄妹として接してきたところだったろうから、我慢の許容範囲を超えてしまったに違いない。それがどんなものか、私に想像の及ぶものではなかった。
――いつか兄に――
そんな不安を抱いているのかも知れない。
その証拠に私との情事の際、完全に自分を見失っているまさにその時、急に思い立ったように身体を硬くすることがある。まったくの一瞬であるが、男とて辛い一瞬でもあった。
――このまま付き合っていてもいいのだろうか――
そんなことを感じ始めた時に私の前に現れたオンナ、それが優美子だったのだ。
優美子は私を夢中にさせた。
最初の頃こそ恭子のことは誰にも話さずにいたので、優美子にも黙っているつもりだった。しかしさすが優美子にかかっては私のそんな秘密などすぐに分かるらしく、それとなく聞いてくるのである。
そんな時の優美子の妖艶さといえばなく、媚薬のような感覚は苦痛を感じさせない。まるで母親の羊水に浸かっているような気持ちよさで、秘密にしていることが罪悪以外の何ものでもなくなるのである。
「何かあったらいつでも私に話してね」
ソフトな口調に棘はない。優しさに溢れた言い方は、酸いも甘いも受け入れてくれそうだった。
「実は……」
私はおもむろに語り始める。静かに頷いて聴いてくれている優美子の顔は本当に優しそうだ。ベッドの中での気だるさも宙に浮かぶような心地よさに変っている。
「そう、そんなことがあったの」
「怒らない? ほかの女性と……」
「怒らないわよ。大体検討はついていたから」
やはり彼女にはすべてお見通しのようである。
優美子はそれから私の話を親身になって聞いてくれた。よほど私のことが気になるのか、男冥利に尽きるというものである。
その時の優美子の目が怪しく光ったことを、その時私は気がついていた。しかしそれが何を意味するかまで分かろうはずもなく、たとえどんな精神状態であろうとも彼女の真意を見抜くことはできなかったであろう。
「よっしゃ、サヨナラだ」
歓喜の声が上がり、みんなホームベース上に集まってきた。ホームインした選手の頭を叩いたり、一塁から満面の笑みで戻ってくる「サヨナラの立役者」に握手を求めたりしていた。
しばらく歓喜の輪ができていたが、私と水谷のその時の意識はスタンドにあった。
結局現れなかった恭子。何となくホッとしている私とは違い、水谷の表情は青ざめている。試合などどうでもいいと言わんばかりに、たぶん近づけばワナワナと震えているに違いない。
「恭子」
唇が微妙にそう動いた。まず間違いなくそう呟いているはずである。
――本当にサヨナラかも知れない――
そしてそれが私にとって「勝ち」試合であることを後日知った。もう二度と私の前に現れない恭子は水谷の心に永遠の翳を残したまま、深い眠りに就いたのだった。
それからすぐに水谷は野球チームを去った。
今、水谷がどこで何をしているか私は知らない。たぶん誰も知らないと思うが、いなくなってしまえばこれほど存在感の薄い男だったのかと思うほど、あっという間に頭から印象がなくなってしまった。
――もうこの世にいないのかも知れない――
そう思うと一番しっくりくるなど、いかにも皮肉っぽかった。
私はというと、優美子との間がさらに親密になったことは言うまでもない。妖艶さはさらに増したような気がして、まるで彼女といる時は別世界にいるような気がする。
――優美子に逆らったら――
不安が徐々に加速していく。始めて出会った頃の妖艶さとは明らかに違う。
確かに別世界にいる時の私は催眠術にかかったかのように何も考えることがない。醒めてもしばらくは覚醒した頭は元に戻ることもなく、次第にその間隔が長くなっていく。
今私は優美子がスタンドにいない試合のことを思い出している。その日の私は調子がよく、点を取られる気がしなかった。相手も同じく調子がいいのか、うちの打線は沈黙していた。
息詰る投手戦、それこそ催眠術に掛かり、覚醒したままのマウンドだった。
――その日の調子はマウンドに上がらないと分からない――
まさしくその通りである。これほどのピッチングができるなど、マウンドに上がる前では信じられなかった。
そう感じた時である。
最初は感じなかった疲れを、終盤になると一気に感じるようになっていた。もう何も考えることはできない。マウンドで孤立している気分になった私は、まわりの声を感じることもなくなっていた。
「サヨナラだ」
どこからか声がした。もう何が何か分からなくなっている。
私は果たして勝ったのだろうか……
( 完 )
作品名:短編集8(過去作品) 作家名:森本晃次