セカンダリー・プレイス
もし、自分だけが清水さんに特別な印象を持っていると感じているのであれば、ある意味すごいことのように思える。そこに清水さんの作為が含まれているように思えるからだ。しかし、清水さんにそこまでの考えがあるとは思えない。なつみの取り越し苦労であり、買いかぶりすぎなのかも知れないと感じるのだった。
この日、ママさんはなつみを使いに出したのは、何か考えがあってのことだったのだろうか? ママさんは、なつみが前の会社を辞めた理由を知っている。元々、話をするつもりはなかったのだが、勤め始めてから、二か月が経ったある日、
「なつみちゃんがお仕事を辞めた理由は、男関係が原因なのね?」
それまで、ママさんがなつみに対して、過去のことを聞くなどなかったことだったが、その時はまるで意を決したかのように真剣な目で訊ねた。そんな視線を帯せられて、今さらウソをつけるはずもないと思ったなつみは、
「はい、そうです」
と、ゆっくりと白状していったのだ。
ホテルのロビーは、広すぎず狭すぎず、広さのわりに、乾いた靴音が響くのは、壁が大理石でできているのを感じたからだった。美術館なdのロビーを彷彿させるスペースは、今まであまり馴染みのなかった美術館に、今度行ってみたいと思わせるものだった。
さらにここのホテルのロビーで気に入ったのは、全体的に香ってくる花の香りのような甘い匂いを感じたことだった。香水の匂いとも違うこの感覚は、
――香水と言えば柑橘系――
という印象で、普段なら花の香り以外から甘い香りがしてくるのは、あまり好きではないのだが、その時は嫌な感じがまったくしなかった。むしろ、
「この匂い、今までにも嗅いだことがあるような気がする」
と思わせ、懐かしさを感じさせるものだった。それは半分は思い出したくない記憶、そんなに古いものではないはずなのに懐かしいと感じるのは、会社を辞めてからの自分が、生まれ変わったように思えたからだ。
不倫が原因で会社を辞めることになったが、不倫が終わってしまったことよりも、会社を辞める決心をした時の方が、印象に深く残っている。今までなら不倫の清算の方がイメージとして深く残っているものだと思っていたが、思い出すこととすれば、会社を辞めることになった時の方が辛い感じがした。それだけ、会社を辞める時の自分が、
――すべてを失くしてしまった――
と感じた時だったに違いない。
不倫の清算は転落のまだ途中であり、会社や仕事が自分の帰る場所のように思っていたとすると、最後の砦である会社や仕事を失ったことで、自分が完全にとどめを刺されてしまったのだということを自覚したのだろう。
だが、この懐かしいという感覚は、そんな最近のことではない。会社に入る前の記憶ではないだろうか。しかし、懐かしいというだけで、それ以上のことは思い出せない。思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われそうな気がしたからだ。
――記憶喪失になった人が、思い出そうとしてもどうしても思い出せない時、頭を抱えて激しい頭痛に襲われているのを耐えている姿が思い浮かぶが、まさにそんな状況になりそうで、怖かったのだ。
これは最近感じるようになったことであるが、なつみには、卒業から就職までの間の記憶が欠落しているところがあった。それがどんな記憶なのか、ハッキリとしない。楽しい記憶なのか、それとも、思い出したくもないような記憶なのかも分からない。記憶が欠落しているということに気づいたのもごく最近で、ふとしたことからだった。
スナックに勤め始めて一か月くらい経った頃のことであろうか。扉を開けてから中に入って急に、
――あれ? どこかが違う――
と感じた。
急にスペースが狭くなったような気がしたのだ。なぜそう感じたのかすぐには分からなかったが、実際に何かが増えたから狭く感じるというのでは理屈は分かる。しかし、実際に増えたものはない。逆に何かがなくなったのだ。何かがなくなったという意識はあるのだが、それがどこにあったものなのかも分からない。ただ漠然と、
――何かが足りない――
と感じたのだ。
何かが足りないということであれば、スペースに広さを感じるのであれば分かるが、狭く感じたというのは合点がいかない。合点がいくことではなかったことが、違和感があるにも関わらず、何がどう変わったのか、すぐに分からなかった理由であった。
なつみは違和感があることをママに言わなかった。聞けばすぐに分かることなのだろうが、簡単に聞くことはしなかった。聞いてしまえば簡単なのに聞かなかったということは、自力で思い出すことで、他に忘れてしまったことがあれば、思い出せるのではないかと感じた。
その時に、自分の中に記憶が欠落している部分があることを知った。何か過去に物足りなさを感じていたが、その原因が分からなかった。この部屋に感じた広さのように、記憶が欠落しているからといって、その記憶が戻ってきても、すべての線がつながるとは思っていなかった。線が集合して面を構成しているのであれば、今のなつみには、線と面とがつながっていない。欠落した記憶の中に、その答えが隠されているような気がする。
もちろん思い出したいと思うのだが、思い出すことが恐怖にも繋がっていた。もう少しはっきりとした部分が見えてこないと、思い出すべきではないのだと感じていた。
そんなことを思い出していたのも、ロビー内に香っている甘い香りによるものだった。そして次に感じたのは、
「何だか、眠たくなってきた」
という思いだった。
元々美術館のようなところで、乾いた靴の音や、必要以上の喧騒な雰囲気を感じた時、急に睡魔が襲ってくることがあった。そんな時は、眠くならないように耐えていたが、それも次第に快感のようになっていき、いつの間にか、今自分がいるところが、現実なのか夢の中なのか分からなくなることがあった。
気が付けば眠ってしまっていて、目が覚めた時の記憶しか残っていない。そのため、夢うつつに感じた時間も、
――後から、自分の中で捏造したものではないか?
と感じるようになっていた。
――記憶というものは、元々自分だけにしかないものなので、いくらでも捏造できるのかも知れない――
と感じた。
それが自分にウソをつくことになったとしても、自分のためになると思うことであれば、それが無意識であっても、否定することなどできるはずもない。それが、記憶を一部欠落させる要因になったのではないかと感じたことがあったが、当たっていないにしても、それほど的外れでもないように思えていた。
ロビーでうとうとしていた時間がどれくらいだったのか、やはり、眠ってしまっていたようだ。
「もしもし?」
と揺さぶるように起こそうとしている人がいる。眠りが浅かったはずなのに、瞼は想像以上に重たく、目を完全に開けることができない。揺さぶられても、眠い自分を起こそうとしているこの人に、怒りを覚えることはなかった。むしろ起こそうとしてくれていることに感謝の念を覚えるくらいだ。
――それにしても誰なのかしら?
探している相手である清水さんではないようだ。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次