セカンダリー・プレイス
「あの時はごめんなさい」
と、皆から謝られたりすれば、
「いいのよ。私、気にしていないわ」
と答えるしかなかった。
謝罪のタイミングも絶妙だった。もう怒りも収まった頃で、
――嫌な思いは忘れよう――
としていた矢先に、謝ってくるのだから、こちらもむげにはできないというものだ。実に巧妙である。
もちろん、気にしてないなどウソに決まっているが、それよりも想像もしていなかった時であり、ほとんど諦めかけていた時に差し込んできた巧妙だと思うと、嫌な気がするはずもない。それまでのいきさつをすべて忘れて、
――皆を許そう――
と思うのだった。
許してあげると皆は感動してくれる。それを見ることで、なつみは有頂天になってしまって、実はこの瞬間が、一番危ないという意識をまったく持たないまま、相手の術中にはまってしまうのだった。
有頂天になると、本当にまわりは見えてこない。
何しろ今まで上ばかり見てきたのだから、今度は上を見ても、見えるのは空ばかりだ。そんな状態が有頂天であり、見なければいけない足元を見ていなかったことで、足元をすくわれることになるなど、想像もしていなかった。
結局同じことの繰り返しである。人を信じることから初めてしまうのだ。その時は自分が臆病だなどと思いもしない。気が付けば自分だけが置き去りにされて、自分一人悪者になってしまうという、人身御供の心境に陥るのだった。
同じことを懲りずに繰り返してしまうのは、
――いつもひどい目に遭うが、決定的なひどい目に遭っているわけではない――
という思いがあるからだった。
それゆえに同じことを繰り返してしまう。だが、逆に言えば、
――本当のひどい目に遭っていないのだから、好運でもある――
と言えるのではないだろうか?
その頃、一度、神頼みを試みたことがあった。神社に通い続け、お百度参りのまねごとをしてみたこともあったが、
――しょせん真似事ではうまくいくはずもないわ――
と、半ば諦めていたが、それでも途中で止めるのは嫌だったので、神社へのお参りは、定期的なものとなっていた。
「やっぱり、好運だったのかしら?」
そのうちに自分だけが置き去りにされ、悪者にされることはなくなった。
――これが神の御加護というものなのかしら?
と思ったが、実際には、ターゲットが他の人に移っただけだ。だが、なつみから見れば自分への攻撃がなくなったのだから、ご利益があったと見ていいだろう。その頃から、少しずつ神の存在を心のどこかで意識するようになっていたようである。
ただ、そんなことを思ったのは、中学生になってからの、実に短い時期だった。
――思い過ごしだったんだわ――
と感じるほどの、ごく短い時間のことであり、それからは、神も仏も気にすることはなくなっていた。
短い時間、ひたすらお百度参りをしただけで、お参りすることがどのようなご利益をもたらすのか、あるいは、お参りに際しての礼儀作法など、一切知らなかった。我流というお参りだけで、何が変わるというのだろう?
そのことに気づいたことで、神頼みはやめた。それでも、正月には初詣を欠かしたことはない。誰かと一緒に行くのであれば、ただの年中行事の一つとして行っているだけだが、いつも一人で出かけているのは、心の中で、まだどこか神様を信じる心が残っていたからなのかも知れない。
第二章 都市伝説
なつみは、スナックで聞いた話をしばらく忘れることができなかった。忘れることができなかったことが、聞いた話の中に出てくる神社を発見することができた理由だと思って疑わなかったのは、意識はしていても、時間の経過には勝つことができず、あと少しで、神社の話を忘れてしまうのではないかと思うようになった時期を迎えた時のことだった。
あれはママさんの使いで、ホテルのロビーに出かけた時のことだった。常連客の一人が駅前にある大きなビジネスホテルで働いていたが、ママさんからの言伝を持ってフロントに声を掛けた。九時すぎに行けば、出社していると思って出かけたのだが、
「彼なら、本日は十時からの出勤となっております」
と言われた。
「そうですか。せっかく来たんですが」
「何かお届け物でしたら、お預かりすることもできますが」
と言われ、しばし悩んだが、せっかくママから言われてきたのだから、少しくらい待つのは問題ないと思っていた。それに、十時から出勤で、十時ギリギリに出社してくる人もいないだろうと思ったからだ。
その客を思い浮かべてみると、なるほどホテルマンをしているというだけに、実に紳士的な振る舞いが目立つ人だった。きっと勤務態度もよく、出社時間ギリギリに来るようなことのない人なのだろうと思われた。
店ではあまり目立つ方ではなかった。しかし、話題性の豊富さ、そして時折見せる紳士的な振る舞いを思えば、ホテルマンだと言われて納得する部分は多かった。あまり客の仕事のことやプライベートは、本人が話そうとしない限り聞いてはいけないものだという認識があったので、目立たないわりに気になる人だったので、余計にホテルマンと言われてすぐに頷けたのだ。
その人は名前を清水さんという。
彼のどこに惹かれたのか、なつみは、彼のいうことは、どんなことでも信用できるような気がしていた。惹かれたとすれば、話題性の豊富さと、紳士的な振る舞いにであろう。
惹かれたというよりも、慕う気持ちが強くなってきたのは、紳士的な雰囲気によるところが大きいのだろうが、慕う気持ちとは別にもう一つ何かがあると思っていたが、それが頼りがいだと感じたのは、やはり、彼の話題性の豊富さを感じているからに違いない。
お店に顔を見せる時は、ラフな服装ばかりだった。ホテルマンだと聞いて、制服姿を思い浮かべようとするが、なかなか思い浮かんでこない。ラフな服装から見せる紳士的な雰囲気と話題性の豊富さは、彼の中にある余裕というものを醸し出しているように思えてくる。
そういえば話し方も実に穏やかだった。目立たないのも、話し方に棘がなく、穏やかだからなのかも知れない。
どうしても常連が多いと、会話も熱くなることが多い。そんな中で一人落ち着いた雰囲気だと、誰にも意識されることはない。自分から積極的に会話に参加しなければ、全体の雰囲気から取り残されてしまう。
それでも、清水さんの雰囲気に変わりはない。絶えず自分のペースで話をする。最初こそ皆から無視されているように感じられたが、いつの間にか清水さんが口を開いた時、誰もそれを遮る人はいなくなっていた。やはりこういう輪の中で、一人は清水さんのような人がいるかいないかで、輪全体の大きさが変わってくるように思える。清水さんの存在は、まわりに大きく見せるためには欠かせないものだったのだ。
なつみはそのことを意識していたが、他の客はどうであろうか?
清水さんの存在が、皆それぞれの中で一目置かれるような存在になってきたというのは分かっているのだが、そのことが自分の目でまわりを見た時に、どのような反応に見えるというのだろう?
――清水さんに対して、誰もが一目置いている――
という意識を持っているのだろうか。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次