セカンダリー・プレイス
清水さんよりも少し年配ではないかと思ったのは、見えないにも関わらず、その人に落ち着きを感じたからだ。自分の知り合いの中にどれほどそんな人がいたのかを思い起こしてみたが、記憶を掘り起こしてみた中には、どうやらいないようだ。確かめるためにも何とか目を覚まさないといけないと思いながらも、なかなか目が覚めないのは、睡魔だけが原因ではないように思えてならなかった。
「う〜ん」
それでも何とか眠い目をこすりながら、目を覚まそうとしていた。
――こんな顔、本当なら見せられない――
と思うほど、女の子なら恥かしく感じるほどのものだった。
身体を伸ばしきることができたことで、何とか目を覚ましたが、目の前にいる人の顔を見ても、どこの誰だか分からなかった。
「あの、すみません。私をご存じなんですか?」
と声を掛けると、相手の人はきょとんとしていたが、
「ええ、この間、あなたがお友達と?んでいるところにお邪魔したものですよ」
一緒に呑みに行く友達といえば、スナックのママくらいだろう。ママの年齢はママとしては若いとはいえ、三十歳半ばを超えている。友達に見えるというのも不思議なものだ。
何となく言われてみれば、見覚えのある顔に見えてきた。一度、前後不覚になるくらいに酔い瞑れたことがあり、その時、誰か他の客と呑んだ記憶も残っている。しかし、それがどこの誰なのかという記憶はなかった。相手は名乗ったのかも知れないが、なつみには意識はなかった。
ただ、その日、どうして前後不覚になるほど?んでしまったのか、意識はない。たまに酔い瞑れることのあるなつみは、それが定期的なものに思えていた。急に感情の中にふっとかすめるように流れていく風を感じた時、無性に寂しさが襲ってきて、呑まずにはいられないのだ。その寂しさがどこに起因しているのか分からない。起因していると考える方が無理があるような気がして、
――寂しければ、誰かと一緒に呑みにいけばいい――
と、簡単に考える方が精神的に楽だった。
寂しい時は誰に気兼ねすることもなく、思った通りにしていればいい。下手に自分を抑えようとすると、ロクなことを考えない。それならば、無理をしないように何をすればいいのか、その時々で自分に正直な気持ちに身を任せればいいだけのことだった。その結論が今までは、
――寂しい時は、誰かを伴って呑みにいけばいいんだ――
と思うことだったのだ。
会社勤めする頃は、たくさん一緒に呑みにいく相手はいた。グループで呑みに行くこともあれば、その中の一人と呑みに行くこともあった。しかし、二人で呑みにいく時の相手はほとんど決まっていて、よほど気心が知れた相手でないと一緒に呑みに行くことはない。
学生時代に、一緒に呑みにいく相手を選ばなかったばっかりに、あまり気心の知れていない人と呑みにいって、うっかり自分の胸にだけしまっていたことを喋ってしまったことがあった。
呑んでいる時は気持ちが大きくなって、喋ってしまう。それは、相手を信じ込んでしまうからであって、自分の中の弱さ、あるいは、寂しさから来るものではないだろうか。寂しさというものは、その人の弱さから来るものもあるだろうが、その人の弱さがそのまますべて寒しさにつながるものではないと思っている。だからこそ、自分の中の弱さを表に出さないようにすれば、寂しさに圧し潰されることはないと思うようになった。
ただ、呑んでいる時になかなか自分の弱さを表に出さないようにするのは難しい。それなら、よほど気心の知れた相手でなければいけないだろう。お互いに腹を割って話せる相手であれば、お互いに持っている傷を曝け出して話せる相手、そんな相手が一人いれば十分だった。
今のなつみには、それがママだった。
「私もなつみちゃんくらいの頃には、不倫の経験があるのよ」
となつみが前の会社を辞めた理由を話した時に、そう言っていた。
「不倫なんて、百害あって一利なしだって思っていたけど、実際に自分がその立場に入ってみると、まるで悲劇のヒロインになったような気持ちになったの。しかも、自分が他の人と違うところをいつも探しているようなところがあったので、余計にまわりの人に秘密を持てたことが嬉しくて、相手云々よりも、自分の気持ちに正直に生きているつもりになれたことが嬉しかったの」
ママにはどこか子供のようなところがあると思っていたが、この話を聞いて、
――このあたりがママの子供に見えるゆえんなのかも知れない――
と感じた。
この時に浮かべた笑みは照れ笑いを感じさせ、あどけなささえ彷彿させた。ただ、子供というよりも、小悪魔っぽいところがあるのが、水商売のオンナを感じさせるのだ。
だが、なつみはこの時のママが見せたあどけなさで、今まで寂しさからしがみついていた不倫というものに対し、急に冷めてきた自分を感じた。
――ひょっとしてママは私に不倫に対して冷めた気持ちにさせるために、わざとこんな言い方をしたのかしら?
と感じさせたが、
――まさかね――
と、すぐに打ち消している自分がいた。
確かに買いかぶりすぎなのかも知れないが、最後に見せたママの笑顔が、
――私は何でもお見通しよ――
と、言わんばかりの様子に、自分の直感だけで相手を見てはいけないと思わせるものがあった。
――やっぱりママは百戦錬磨なんだわ――
と思うと、過去の不倫経験を曝け出すだけの今の自分に自信があるかも知れないと思った。しかし、いつも謙虚な姿勢を忘れないママを見ていると、なつみに自分の過去を話すということは、自信があるというよりも、戒めとしての気持ちも含まれているのではないかと思った。
なつみが急に不倫していた自分に冷めた気持ちになったのは、そんな戒めを感じたからで、冷めることができた原因に、
――自分を客観的に見ることができたからだ――
と感じたのも、その時だった。
自分を客観的に見るのは、別に逃げているからではない。学生時代までは、自分を客観的に見ることと、まるで他人事のように感じることをまったく同じことだと思っていたが、今では、逃げの気持ちのあるなしが、二つを決定的に分けているのだと思うようになっていた。
そんなママと一緒に呑んでいるところを眺めていたというこの男、前にどこかで会ったことがあるように思えたが、気のせいだろうか。ただ、この人とどこで会ったのかというのを思い出すことはできるのだが、その意識にどうにも信憑性を感じない。
――まるで夢の中で出会ったとしか思えないほど、意識してしまうと、却って思い出せない相手に思えてきた――
と感じていた。
意識していないつもりだが、どこか意識している自分を感じる。それは、自分から意識するものではなく、見えない力に意識させられているという感覚だった。
なつみは、目の前にいるこの男性と、
――これから私たちはどうなっていくんだろう?
という思いに駆られていた。いくら以前、一緒に呑んだことがあると言っても、その時の記憶が鮮明に残っているわけではない。ただ、思い出そうとするとその時のことを思い出すことはできないのに、違う場面での記憶が思い出された。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次