セカンダリー・プレイス
彼の優しさは、厳しさを伴うことで、なつみを支配しようという意識があった。なつみも支配されることが自分に心地よさを生み、さらには、後ろめたさを少しでも解消させてくれるものだと思っていた。二人の身体の関係は、アブノーマルなものになっていた。村山の自然なタッチがなつみを天国に導いてくれ、知らず知らずのうちに、感覚をマヒさせられていたのだった。
次第になつみは、
「不倫は悪いことではない」
と思うようになり、
「バレなければ、何ら問題ない」
とまで思うようになっていた。それは、村山の巧みな操縦術だったのだが、不倫以上不倫以下ではない関係に、アブノーマルというエッセンスが加わることで、どこまで行っても見えない出口を意識することをなくそうというものだった。
しかし、なつみが考えていたほど、世の中は甘くなかった。バレなければいいと思っていたはずなのに、村山の奥さんにバレてしまったのだ。
「バレるはずはないと思っていたんだが」
と村山は言ったが、どうやら、奥さん以外の女性に対してはいろいろ気が付くし、気を遣うことができるのに、肝心の奥さんに対しては、その「神通力」は通用しなかった。
それまで、自分のことを一番よく分かってくれている村山に全幅の信頼をおいていたのだが、
――私のことは、奥さんに対してよりもよく分かってくれている――
と思っていた気持ちに間違いはなかったが、
――実際は奥さんのことを分かっていなかっただけなんだわ――
と思うと、それまでの自分を冷めた目でしか見ることができなくなっていた。
冷静になって考えると、村山と二人でいる時、奥さんの話をしなかったことに感激した自分がいた。不倫相手に、奥さんの話題を出されることほど情けないものはないと思っていただけに、なつみはわざと奥さんのことを話題にしない村山が、いとおしいと思うようになったとしても、無理もないことだった。
――二人の世界は、誰にも侵すことのできない領域――
という思いを抱いていて、その思いが不倫という後ろめたさを感じさせないものにしていたのだ。
二人だけの世界を作っているのは、自分ではなく、村山だと思うことで、奥さんに対しての後ろめたさが消えている。しかし、村山の方は、二人だけの世界を作っているのはなつみだと思っていた。
こちらも奥さんに対しての後ろめたさを消すためであり、同じ思いであっても、まったく違ったものだったのだ。
なつみの方では、メルヘンチックな思いを抱き、二人だけの世界を妄想の世界に抱き上げ、悲劇のヒロインを想像していた。しかし、村山の方はもっと現実的であり、奥さんへの不満や家庭のストレスを二人だけの時間をなつみが作ってくれたと思うことで、発散させていたに違いない。そういう意味では、村山の方が感情的になりやすいが、冷めてしまった時は、あっさりとしたものだったに違いない。
お互いの感情を一言でいうなら、なつみの場合は、メルヘン世界への逃避行のようなものであり、村山は不満やストレスからの現実逃避と言えるだろう。
そんな感情の行き違いが、いつまでも続くわけもない。どちらかというと、現実的な村山の方から崩れてくるものだ。
なつみの方も、メルヘンの世界への逃避行を続けているとはいえ、いつまでも夢見る少女というわけではない。村山の態度にまったく変化がなければ、このまま不倫は続いていたのだろうが、村山に落ち着きがなくなってくると、さすがになつみも自分の置かれている立場に気が付いて、冷めてくる自分にビックリしていた。
最初こそビックリしたものの、冷静になって考えれば、どんなに綺麗なお題目を上げようとも、不倫に変わりはない。そう思うと、なつみは村山という男の本性を知るようになってきた。
それまで身体の関係においては、主従関係の様相を呈していた。村山の望むことであれば、何でもしてきたし、これからもずっと慕っていけばいいと思っていたが、等身大の村山を見てしまうと、村山の気持ちがすでに、
――心ここにあらず――
のように思えてきた。
村山は会社の上司、このまま会社に一緒にいることはできないと思った。その気持ちは逃げ出したいという気持ちではあったが、まわりの目に耐えられないから会社を辞めるというものではなかった。
――もうここには自分の居場所はないんだ――
と感じたのが一番の理由である。
会社を辞める理由は、きっと会社の誰も知らないだろうと思っていたが、噂というものは、なつみが考えているよりも世渡りに敏感だった。いつの間にか給湯室での話題が、なつみと村山の話になっていることに、なつみは気づいていなかったのだ。もっとも、火のないところに煙が立つわけもない。やはり話題の出所は村山だった。
村山の奥さんが、ひそかに会社で夫のことを「嗅ぎまわって」いたのだ。村山の奥さんの顔を知っている人はほとんどいなかったが、不審な行動というのは組織の中では微妙な存在は目立つもの。しかも、その人が組織の外の人間であればなおのこと、
――知らぬは当事者ばかりなり――
だった。
まさか、村山も自分の奥さんが嗅ぎまわっているなど、思ってもみなかった。一番ありえないと思っている人間には別世界の動きだったのだ。
なつみも、自分のまわりを探偵のように嗅ぎまわっているなど思いもしない。ただ、奥さんに対しての後ろめたさがあっただけだ。
――まさか、そんなテレビドラマのような――
最初、自分のことを社内の人が噂していることを知ったなつみも、その理由が自分たちのことを探っていた奥さんにあるなどと、想像もしていなかった。それこそ、テレビドラマの世界であり、自分がその立場になろうなど、思ってもいなかった。
だが、なつみはそのことを知った瞬間、
――自分が奥さんの立場だったら、どうするだろう?
と思った。
夫に浮気された奥さんの心境を思い図るなど、土台無理なことだと思うのだが、想像せずにはいられなかった。できないとしても想像してみることが大切だった。何も考えなければ、先には進めない気がしたからだ。
なつみにとって、奥さんはまったく知らない人だった。
村山は奥さんの話をなつみの前では絶対にしなかった。なつみが嫌がるのを思ってのことだとは理解できたが、こうなってしまうと、
「どうしてしてくれなかったの?」
と、文句の一言でも言いたいくらいだった。
相手がどんな人なのかも分からず、ただ嫉妬に怒り狂った相手しか目に映らないのだ。どう考えても、贔屓目に見ることなどできるはずもなかった。
なつみが頼れるのは村山だけになってしまったが、頼みの村山はすでに気持ちが萎えていた。それはなつみに対してではなく、奥さんに対してのことで、それまで慕っていた相手とは思えないほど、自信喪失が甚だしかった。
相手の情けなさを見ると、怒る気も失せてきた。
――こんな人だったんだ――
自分の見る目の浅はかさに、思わず苦笑を漏らすしかなかったが、ここまで来るとある程度開き直れるというものだ。
――会社を辞めることなんて、大したことじゃないわ――
ただ、逃げ出すと思われるのが嫌なだけだった。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次