セカンダリー・プレイス
言い訳だということも分かっていたはずだ。この頃のなつみは、悪いことだと思っていても、寂しさを紛らわすためには、少々のことは許されるという思いが強かった。きっと、今まで生きてきた中で通ったことのない道が目の前に広がっていて、曖昧な人生の中に、明らかな道しるべを見つけてしまったのかも知れない。それが誘惑であり、悪いことだというのを意識しながらであった。
少々のことなら許されるという思いがあったが、では、その少々というのがどういうことなのかというのを、考えたことはなかった。少々のことを曖昧に考えていたのだ。
寂しさに対しても、かなり曖昧な気分だった。
――心の寂しさを埋めてくれる人がいれば――
という思いから始まったはずなのに、身体の寂しさを一緒に考えなかったことから、出会った相手が不倫であることを知りながら、のめり込んでしまう自分を抑えることができなかった。
「君の気持ち、よく分かるよ」
と言われて、
「私の気持ちのどのあたりが?」
と聞けるだけの精神的な余裕がなつみの中にあれば、のめり込んでしまうこともなかったかも知れない。
相手の「気持ち」という言葉の意味の中に、身体まで含まれているということに本当は気づいていたのかも知れないが、心のどこかで、
――それでもいい――
と思っていたに違いない。
心と身体を切り離して考える必要はない。だが、それも相手が身体を求めてくるにしても、
――心ありき――
であるかどうかが問題だった。
確かに普段は、気持ちを大切にしてくれる相手であったが、身体を求めてくる時に、心を見ることをしない彼に、なつみは気づいていなかった。もし気づいていたのなら、簡単に身体を開いたりはしなかったからだ。普段の彼から身体を求めてくる彼を想像してしまっていたのだろう。なつみにとっても、身体を重ねている間、絶頂に達するまで、それ以外のことはすべて、
――余計な事――
として、頭の中が空になってしまっていたのだ。
――身体を絶頂にもっていくためには、余計なことを考えてはいけない――
というのは、自分の本能だとなつみは思っていたが、それは自分だけではなく、誰もが同じだと思っていた。それだけに大好きな人から身体を求められると有頂天になり、それ以外のことは頭に入ってこなかったのだ。
それが男の計算ずくであるなど、毛頭考えてはいない。しかし、傷つくのは女性であり、相手が不倫であれば、最後には家庭に戻ってしまうという選択が一番自然であり、可能性としては高いことを考えようとはしなかった。
身体を求められ、絶頂に達する自分をいとおしいと思っている以上、なつみはそれを、
「甘い蜜の罠」
として認識してはいても、そこから逃れることはもはやできないと思い込んでしまっているのだ。
自分を美化することで、悪いことを正当化しようとするのは不倫をしている人の常套手段と言えるだろう。不倫という言葉を聞いて、
「浅ましい。惨めだ。情けない……」
などと、愚劣な言葉がいくらでも浮かんできたはずなのに、そんな愚劣な言葉を正当化しようとする自分、そこには自分を美化するという発想が含まれていることで、次第に自分を綺麗に見せようとすることを嫌うようになっていたのだ。
不倫をしているのに、本当は相手に、
「綺麗だよ」
と言ってほしいにもかかわらず、なつみは、家を出る時、それまでしていた化粧を施さなくなった。最低限の身だしなみだけはするのだが、自分を綺麗に着飾ったりすることはなくなっていた。
それは自分を美化しようと言い訳をする自分に対しての細やかな抵抗だったのだろう。
それでも不倫相手の男性は絶えず、
「綺麗だよ」
という言葉を連発していた。
それは見た目を口にしているわけではなく、そう口走ることで、何かの暗号をなつみに送っているのではないかと思えた。
――他の誰にも知られることのない二人だけの暗号――
それが二人の間に横たわっている以上、なつみは、やはり彼から離れられないと思うのだった。
彼の名前は村山敏郎という。最初はなつみも、
「敏郎さん」
と呼んでいたが、途中から、
「その呼び方はやめてくれ」
と言われ、
「村山さん」
と言い直すようになった。
――奥さんから、そう言われているのかしら?
となつみは思ったが、これが勘違いだと気づいたのは、かなり後になってからのことだった。
「今さら、そんなことはどうでもいいわ」
と呟くほどの時期で、それよりも、
――そんなことに気づかなかったなんて、よほど私はおめでたいというか、感覚がマヒしていたのかも知れないわ――
と思ったことに悔しさを感じたのだ。
感覚がマヒしていたのは、あまりにも現実離れした、いや、浮世離れした生活を送っていたことが原因だったように思う。まずは、自分が不倫にのめり込むこと自体が現実離れしていたことであるし、相手はすでに五十歳を超えていて、自分の父親よりも年齢が上だったということも、後から思えば浮世離れしていたのだった。
だが、付き合っている間は、そんなことにはまったくお構いなしだった。むしろ、同い年の男の子たちは頼りなく感じられ、
「自分の理想は、自分よりも十歳以上年上の男性だ」
と、学生時代には公言していたくらいだった。
学生時代の友達の中には、同じように年上好みの女の子もいて、話が合った。年上が好きだという理由も似ているところがあったが、ファザコンだと公言していた友達とは違い、さすがにそこだけは歩み寄ることができなかったが、それは自分がそこまで寂しさを感じていなかったからだと今では思う。
「人生には、どんなことをしても逃れられないアリ地獄のような寂しさがこみ上げてくる時期がきっとあるのよ――
友達はそう言っていたが、曖昧に返事だけして、本当の意味を分かろうとしなかったなつみだが、どうしても頭の中に残っていた。その言葉の意味が村山と知り合った時、初めて分かったのだ。
――寂しさとはどういうものなのか――
それは、寂しさが通り過ぎて分かった。
――通り抜けて、一人でも決して寂しくないと言い切れるようになった時、その時期が彼女の言っていた逃れられないアリ地獄のような寂しさだったのだと、初めて分かることができた――
と感じた時だった。
村山がなつみの身体を求めるようになったのは、最初からではなかった。彼はあくまでも紳士的で、身体の関係を求めるくるなど、想像もしていなかった。
しかし、実際に身体を求められると、拒否する気はなつみにはなかった。
――心のどこかで待ち望んでいたのかも知れない――
と思っていたほど、彼がなつみの心の中に侵入してきたのは新鮮だった。
体の相性も悪くはなかった。むしろ、今まで付き合ったことのある男性に比べて、昭空に違っていた。
彼は優しいだけではなく厳しさもあった。それは、なつみを導いてくれる優しさであり、厳しさが優しさの裏返しであることを、思い知った瞬間だった。
導いてくれるのは、何も表面上の優しさだけではない、厳しさの中に、戒めもあった。元々不倫という禁断の中、後ろめたさが不安に繋がるのも無理のないことだった。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次