セカンダリー・プレイス
「僕はこの話を誰から聞いたのかというところが問題なのではないかと思うんですよ。昔教えてくれた人は確かどこかのおじさんだったような気がするんですが、今思い出してみると、そのおじさんの話を聞くのをいつも楽しみにしていたような気がするんです」
「私にこの話をしてくれたのも、おじさんでしたが、その人とはほとんど面識のない人で、いきなりそんな話をし始めたので、話し半分聞いていたので、あなたほど信憑性があるようには思えなかったのかも知れませんね」
「ただ、僕も子供の頃にその話をしてくれたおじさんは、話をする時はいつもいきなりだったんです。どこからそんな話題が出てきたのだろうと思い、降って湧いたような話は子供心に楽しいものだったのかも知れない」
きっと光彦が考えている信憑性と、なつみの考える信憑性という言葉では、意味的なもので、すれ違っているように思う。一言で信憑性と言っても、いろいろ考える発想があるのかも知れない。
なつみと光彦は、たまに店の外で会うようになっていた。光彦が誘ったからだが、なつみもまんざらではなかった。
最初、まだ新入社員で、自分よりもだいぶ年下というだけでも自分と住む世界が違うように感じていたのに、さらにお坊ちゃまの雰囲気を感じさせる光彦に興味を持つなどありえないと思っていた。
しかし、「願いが叶う神社」の話をした頃から、なつみは一目置くようになっていた。さらに彼の中での「信憑性」という言葉が、どこかなつみの気持ちの中で共鳴したのようだ。
――感性の問題かしら?
考え方や、意見の違う人であっても、感性が引き合うことはあるのだと思っているなつみには、光彦がそんな相手であることを認識し始めた。そして、もう一つ気になったのは、光彦の言っていた「おじさん」というのが、自分の中の藤原という人物とかぶってしまったことだった。
それは、その二人が同一人物であるかないかというのは問題ではない。光彦となつみが見ている方向が問題なのだ。お互いに同じ方向を見ているのであれば、そこにさらに何か共鳴するものが燻っているような気がしたからだ。
なつみは、あれから光彦と会って話をするのを、デートだと思うようになった。その頃はまだ光彦の本心を教えられていなかったから、必要以上の意識がなかった。何度目かのデートを重ねてくると、さすがになつみも、
――そろそろでは?
と思っていると、案の定光彦の方から、
「僕はなつみさんのことを好きになりました。もしよかったら、僕とお付き合いしてもらえませんか?」
ベタな告白だったが、下手に捻った言葉よりも、気持ちをストレートにぶつけられた方が、心に響くというものだ。光彦の気持ちを甘んじて受け止めようと思ってみると、光彦の様子が少し変な気がしてきた。
――まるで心の奥を見抜かれているような気がする――
恋愛感情を意識するまでは感じなかったが、急にそう思うようになったのは、なつみ自身も、光彦のことを最初から意識していた証拠なのかも知れない。
ただ、なつみには以前の不倫の経験から、
――もう、普通の恋愛は私にはできないかも知れない――
と思っていた。
一度、不倫という「パンドラの匣」を開けてしまったことで、引き返すことのできない結界を超えてしまったという意識が強かった。
しかも、不倫をしている時は罪悪感だけだったが、終わってしまうと、罪悪感というものが背徳感だけではないことに初めて気づかされた。
罪悪感と背徳感、同じもののように思えるが、背徳感だけでは、罪悪感のすべてを満たしていることにはならない。罪悪感には、背徳感とは別の何かが備わってこそ、罪悪感だと言えるのではないだろうか。
罪悪感に対するイメージは、あまりいいものではない。しかし、それ以上に背徳感というものは、悪いイメージしか湧いてこない。
ということは、
――罪悪感の中にある「悪いイメージ」すべてを、背徳感が請け負っているのではないか?
という考え方も成り立つのではないか?
逆に言えば、
――罪悪感の中にある背徳感以外のものは、決して悪いものではない――
ということになるだろう。
確かに、罪悪感を抱いている人が、すべて悪いイメージというわけではない。罪悪感を抱くことで、悪い道に入ることなく、悪い道への防波堤の役割を示していることもある。そう考えると、不倫というのは罪悪感を持っていたというよりも、
――背徳感が前面に出た罪悪感が燻っていた――
と言えるのではないだろうか。
今までのなつみは、罪悪感と背徳感を一緒に考えていたことで、不倫を乗り越えての恋愛への一歩が、なかなか踏み出せないでいた。しかし、最近は徐々にその違いが分かるようになってきた気がしている。
「時間が解決してくれる」
と言っていた人がいたが、確かにその通りだ。立ち直ろうと必死にあがいたとしても、時間が経てば、あがこうがあがくまいが、結果は一緒で、しかも、同じ時期に降り立つのではないだろうか。それを思うと、
――時間というものに対しての心の余裕をいかにして持つか――
ということが重要になってくるような気がする。
年を重ねるごとに、時間というものへの感覚がマヒして行っているような気がしているが、実際には、余裕というものが育まれているのではないかと思うと、到達点が同じであっても、何も不思議に感じることはない。不倫の痛手がいつの間にか消えていくことを、
――時間の魔力――
と考えるのは大げさな気もするが、時間というものを感じることなく無為に過ごしていくことを思えば、決して大げさではないのだろう。
なつみは次第に背徳感が薄れていくのを感じた。本当であれば、戒めとしての背徳感が残っているべきなのだろうが、前に進むという意味では、罪悪感だけが残っていてしかるべきだと思っていた。
光彦の告白をすぐには受け入れられない自分がいた。光彦にはそれが、
――慎重に先のことを考えている――
と思われていれば、それでいいと思っていた。まさか、光彦がなつみの中に、以前不倫をしたことがあるなど、想像もしていないと思っていたからだが、男性の中には、
――それでもいい――
と思っている人もいるに違いない。
中には、相手が不倫をしたことがあるという事実を盾に、自分の優位性を確かなものにすることで、女性との付き合いを成立させようと思っている人もいるかも知れない。
それは女性にとっては、好きになるに値しない相手であり、女性の弱みに付け込んだ卑怯な付き合い方である。
最初からぎこちないのは当たり前のこと、主従関係は今の世の中では考えられないような封建的な考え方を生むに違いない。
この場合の主従関係は、アブノーマルな性癖である、SM関係とは異なるもので、主は絶対的な強みを持っているのだが、それは相手の弱みという、
――なくなってしまえば何の効果もないーー
と思われる諸刃の剣のようである。
なつみは主従関係というものを、不倫で経験していた。ただ、それはプレイの上でのアブノーマルな関係であり、目に見えない力が影響していた。
それが、信頼関係であり、決して相手の弱みを握ることで、優位性を保つものではなかった。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次