セカンダリー・プレイス
他の人とは違うということだけが、不倫の結末を悲惨にしないことだと思っていたのに、結局は皆同じだったと思った時、相手に対しての執着も、会社に対しての執着も一気に消えてしまった。
――緊張の糸がプツンと切れると、こんなものなのね――
残ったのは、「孤独」という二文字だけだった。
ここまでくれば、
――いかに虚勢を張ったとしても、言い訳にしかならないことは分かっている。言い訳をするくらいなら、何も言わなければいいんだ――
と思うことで、なつみは孤独を甘んじて受け入れ、人と話をすることはなくなった。
そんな状態なら、会社にいても、誰も相手をしてくれない。自分だけが責任を被ってしまったかのように思ったことで、会社を辞める決心がついた。
――まるで逃げるようだけど、もうここには私の居場所はないんだ――
と思うことで、少しでも逃げの気持ちを拭い去ろうとしたが、無理なことだった。
――もう私は人を好きになっちゃいけないんだ――
と思うようになり、その思いの間隙をぬうかのように、ママさんからのお誘いがあったのだ。
スナックで働いていれば、人を好きになることはないだろう。相手は酔っ払い、口説いてきたりすれば、しょせんはナスやキュウリのような野菜だと思って、適当にいなしておけばいいことだった。なつみは、どちらかというと惚れっぽい方ではあるが、孤独に慣れた自分には、もう誰かを好きになるということはないと思っていた。
――不倫相手の上司には、私が騙されただけだ――
最初から、相手が騙すつもりだと思って対応していれば、不倫なんてすることはなかったのだと思うようになった。
もっとも、その気持ちは、騙されたり裏切られたりしなければ分かるものではない。今のなつみになら、相手を野菜だと思えるような気がした。
最近になって、なつみは一人の男性が気になり始めた。彼はまだ新入社員で、学生気分の抜けていない人だった。
最初は上司に連れてこられて来ただけだったが、最近では一人でフラッと現れるようになっていた。それと入れ替わりに上司の方は来なくなった。理由を聞いてみると、
「あの人は転勤になりました」
ということだった。
サラリーマンに転勤が付きものだということを今さらながらに思い出したなつみだったが、今の自分は会社員ではない。まったくの他人事として話を聞いていた。
彼は、光彦と呼ばれていた。苗字を聞いたのはだいぶ後からになってのことで、本人から、
「高橋光彦です」
と改めて自己紹介されて、初めて知ったのだ。
彼の上司は、
――兄貴気質――
なところがあり、部下を下の名前で呼んでいるようだった。光彦以外にも部下を連れてきたことがあったが、その部下にも下の名前で呼んでいた。
なつみは、どちらかというと、光彦よりも、もう一人の部下の方が最初は気になっていた。しかし、光彦が急に一人で現れたことで、なつみの彼に対しての見る目が変わったのである。
「僕は、なつみさんがいるから、この店にもう一度来たいと思ったんですよ」
ママさんが奥に入りこみ、他に誰も客もいない間を縫うように、光彦はなつみに小声でそう言った。
いつもであれば、適当に受け流すなつみだったが、その時は、何も声に出すことはできなかった。最初は、
――こんな坊ちゃん、私の眼中にない――
というくらいに見ていたのだが、いくら上司が転勤でいなくなったとは言え、いきなり一人で現れるなど想像もしていなかった。
そんな光彦が、社交辞令に近いお世辞を言うとはビックリであった。だが、彼の表情を見ていると、まんざらでもなく、お世辞ではないように思えた。それでも、
――坊ちゃんが虚勢を張っているのかも知れないわ――
と、いつでもであれば、
「大人をからかうもんじゃありません」
と言って、お姉さんが弟をいなすような態度を取ったのだろうが、その日は何も言えなかった。
嬉しいという気持ちをハッキリと感じていた。
「お世辞であっても嬉しいわ」
と、言ってあげればよかったのだろうか。
しかし、そんな言葉を口にするのが失礼なほど、光彦の表情は真剣だった。一言も言えなければ、それ以降の言葉が続くわけもない。少しだけ、緊張した雰囲気がその場に充満していた。
「なつみさんは、僕のことをお坊ちゃまと思っているでしょう?」
図星を突かれて、どう返事していいのか迷っていると、
「いいんですよ。私もずっとお坊ちゃまのつもりでいたんですからね。でも、僕は裕福な家で育ちましたが、裕福な家の子として生まれたわけではないんです」
「ということは、養子になられたということですか?」
「ええ、自分の両親を僕は知りません。物心ついた時には、今の義父と義母が、お父さん、お母さんでした。本当の父母ではないことを知ったのは、高校の頃です。その時ちょうど、祖母が亡くなったのですが、それを機会ということで、義父が話してくれました。もちろん、祖母もそのことは知っていたようですが、一番祖母になついていた私が、その話を聞くことで、祖母に対してもよそよそしくなるのを恐れたんでしょうね。祖母は結構長生きしたようですが、元々身体の弱い方だったので、いつ亡くなってもおかしくないということでした。それで、祖母の墓場には僕がよそよそしくなったイメージを持っていかせたくなかったんでしょうね。まったく僕が養子だなんて態度は、まったく見せませんでしたよ」
「お義父さん、お義母さんともに、優しかったんですね。羨ましいわ」
なつみはそう言うと、遠くを見つめるような目で光彦を見つめた。その瞳の奥に写っているものが光彦には見えただろうか? なつみは何かを考えていたわけではない。羨ましいと言いながらも、光彦の何が羨ましいのか、特定できないでいた。
「優しい人たちですよ。本当の子供のように育ててくれて、子供の頃に言うことを聞かなかった僕に対し、怒っているんだけど、優しさがあるんですよ。実の親子でも、子供がいうことを聞かなかった時に説教している父親を見ていると、こっちが情けなくなるほど、まるで自分のストレスを発散させるためだけに怒っているのではないかと思えるほどなんです」
光彦にとっての親と、なつみにとっての親とでは、考え方が天と地ほどの差があるような気がする。元々他の人と比較するようなものではないと思うのだが、特に光彦の場合は義理の仲である。それを思うと、どうしても比較しなくては気が済まないというほどになっていた。
「子供の頃の思い出が結構大きな記憶として残っているんですね?」
「そうですね。何と言っても、本当の両親だと思っていましたからね。二人とも、僕に対しては衝突するところはなかったですね。僕に対しての思いは二人とも同じだったようで、子供のことで喧嘩をする他の家庭が信じられませんでした」
子供のことで親が喧嘩するというのは、当たり前のことのように考えていた。それが、本当の親としての愛情だからである。しかし、こうやって光彦を立派に育てた親がいて、それが本当の親ではないと聞けば、想像するのは、どうしても優しい義理の親である。
もし、義理の親が喧嘩ばかりしていたら、どうであろう?
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次