セカンダリー・プレイス
「まるで、『雨降って地固まる』の言葉通りだわね」
と言って、お互いに笑い合って、それまでのいざこざを、すべて水に流すことができたのだった。
その時、
――自分が感じていることは、自分で感じているよりも、分かる人には分かるものなんだわ――
と思った。
その時の思いを今、藤原が同じ思いを持って話してくれているのだと思っている。藤原にとってなつみは、本当は、
――ただの話しやすい相手――
というだけなのかどうか、なつみにとっては大きな問題に思えた。
「それから奥さんとは、ずっと平穏無事に過ごせたんですか?」
「そうだね。平穏無事だったね。平穏無事過ぎたことが、結末がいきなりだったという演出を残していたのではないかと思うと、平穏無事過ぎたことが、今では恨めしくて仕方がない。だけど、そう思えば思うほど、自分が一番愛していたのが、本当に家内だったのかと自問自答してしまうんだよ」
「奥さんとも、またしてもいきなりの別れが襲ってきたわけですね。まるで『因果は巡る』という言葉を感じているようです」
本当にそんな言葉だったのかハッキリとはしないが、似たような言葉を聞いたことがあったような気がする。
その時は、自分の言葉が相手に対してどれほど失礼なものであったかという意識はなかった。だが、後になってその時のことを思い出すことがあったが、その時に自分の顔から耳まで真っ赤になるほど、その時の自分がどうかしていたことを思い知らされた。せっかく藤原が話をしてくれているのに、なつみが返した返事は、あまりにも他人事であり、血の通った人間の言葉ではないことを、思い知らったのだ。
その時、なつみがどんな思いでその話を聞いていたのか、考えられることとしては、自分の心の中に、一抹の寂しさがあったことだろう。
なつみは、その時、嫉妬していたのだ。
すでに何十年も前に別れた。しかも、藤原をふった相手に対しての嫉妬など、考えられない。それであれば、亡くなった奥さんに対してということになるが、もうこの世にはおらず、会うことは絶対にない相手に嫉妬するというのもおかしな話だ。
本来なら、嫉妬されるべきはなつみであり、まだ感情が固まっていない間にお互いに嫉妬し合うなど、普通なら考えられないだろう。
だが、なつみには、藤原の心が見えたような気がした。
奥さんは確かにもうこの世にはいないが、藤原の心の中で永遠に生き続けている。ドラマなどで聞く、ありふれたセリフの一つだが、自分がその当事者になってみると、どれほどこのセリフに意味があるのかということを実感させられる。
なつみが気になっているのは、やはり藤原の前から姿を消したという女性の方だった。
「以前、別れた女性とは、その後、会ったことは?」
「完全に消息不明になったようで、その時勤めていた会社も辞めて、田舎に帰ったという話を聞いたんだよ。私はその時、『聞いたことのある、どこにでもありそうな話』として考えていたような気がする。その思いが結局は他人事に思わせることで、自分をいずれ開き直らせるための力になって蓄えられたのかも知れないな」
その話を聞いた時、
――この人は、まだ未練を残している――
と感じた。
なつみも、失恋した時はなかなか吹っ切れない方である。いずれは戻ってきてくれるという思いが強かったからだが、一旦嫌いになったものを元のさやに戻すことがどれほど大変かということを思い知った。
しかし、自分が開き直る頃まで世の中はかなり進んでいて、カルチャーショックに陥ることも少なくない。
――相手はいきなり言い始めるわけではなく、自分の中で納得行くまで、かなりの間燻っていたのかも知れない――
と感じた。
つまりは、いきなり言い出した時には、相手はある程度の気持ちを決めてからのことなのだ。掛けられた梯子に昇ったはいいが、梯子を外されて、初めて自分が置き去りにされたことに気付く。いかに自分が愚かで、まわりについて行けていなかったのかを思い知らされる。
その時点で、自分が相手に何を感じていたのかということを忘れさせるものだった。
気持ちを心の奥に封印し、決して開くことのないように自分に言い聞かせる。鶴の恩返しのように、
「見てはいけません」
と、自分に暗示を掛けるが、
「見るな」
と言われると、見てしまうのが人間の本性。誘惑に負ける形で見てしまうと、自分の感覚がマヒしてしまっていたことに気付かされるのだった。
――こういうところだけ、私は女性ではないのかも知れない――
女性が保守的で、まずは自分の殻を作ってしまうという性格は知っていたが、少なくとも自分にはないところだと思っている。そんな性格は嫌いであり、自分がそうではないことを悟った時、嬉しいと感じた。その代わり、自分に降ってくる災いはいつも、「いきなり」なのである。
「実は、結婚前に付き合っていた女性のことを、後になって噂で聞いたんだけど、どうやら、その時に妊娠していたらしく、彼女が私の前から姿を消した理由の一つに、その子の存在があったというんだ」
「では、その女性は藤原さんの子供を身籠ったまま、姿を消したということですか? 私には信じられませんけど」
「そうだろうね。私も信じられなかったけど、私はその時、全うに生きることで自分を変えなければという思いが強かった。彼女はその思いを敏感に悟り、私の前から姿を消したんだろうね。ただ、その理由が分からない。私が急に遠い存在に感じられたのか、それとも、彼女も我に返ったのか、どちらにしても、二人はその先、住む世界が違うとお互いに感じたんじゃないかな?」
「ということは、プロセスが違っても、結果が同じなら、最初も同じなのかも知れないということかしら?」
「私もそう思うんだ。私は、彼女がいきなり目の前から消えた時、探し回った。彼女のいない人生なんて考えられないと思ったからだ。実はその思いは今でも残っていて、もし同じシチュエーションに陥っても、また同じことを繰り返すと思うんだ。そして、もう一つ言えることは、この私は置き去りにされたという思いが強かったということだよ」
「どういうことですか?」
なつみには何となく分かっていたが、聞いてみた。
「彼女にとって、私の前から姿を消すことは、決していきなりではないんだよ。彼女は考えに考え抜いて出した結論を、実行したまでなんだ。だから、そのことを分かってあげられなかった私が悪いんだろうね。でも、あの時はあれでよかったと今では思っているんだよ」
「どういうことですか?」
「私は、彼女と別れてからしばらくして、それまでの好調な人生が、音を立てて崩れていくのを体験した。お金が急に回らなくなり、お金の回転が悪くなれば、すべてが悪い方に行ってしまった。もし、あのまま結婚していれば、二人の不幸は目に見えていた。もちろん、生まれてくる子供にも大変な負担を掛けることになる。時期的には一年ほどのものだったが、人生の運を一気に使い果たしてしまい、奈落の底に落ちてしまったのを感じたんだ。家内と知り合ったのは、そんな奈落の底の出口が見え始めた時で、まるで家内が女神に見えたくらいだったんだ」
「そうだったんですね」
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次